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20年位前の政治学レポート(設題内容 “現代に於ける議会制民主主義の危機について述べよ”)が出て来たのでせっかくなので賑やかしの為にもnote投稿。


レポートの設題内容は、
"現代に於ける議会制民主主義の危機について述べよ"でした。
然しながら当方は今では、日月神示の↓

"多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。"


↑との御告にも触れて決定的に、また他にも、西郷南洲の遺訓でも言及された韓文公(韓愈)による「伯夷頌」にも触発されたりもして、今では少数精鋭という言葉の方をこそ信じて努力し反省し祈る者です。なので、最早民主主義を信じる事(神主主義者にはなりました)はありません。

そんな自分が、この度、記事タイトルに書いた様に、my noteの賑やかしにもすべく、二十年近く前のレポートを今読み返しながら投稿する訳ですが、前半は(恐らく採点基準のキーワードを使用したりして)課題熟してます感がアリアリでしたが、後半では(当時はまだ浄土教信仰のみで、日月神示に触れたりはしてませんが)今と同じ様に、民主主義の否定方向へ筆を走らせてたのが面白く感じたりしました。

 しかし、今ならもう少し柔らかくなる様な表現でも主張するかもとは思います。理由としては、否定は否定でも神様の道・教えから否定するのと、人間が人間の考えで人間を否定するのとでは聞こえ方が違うでしょうから。

それはともかく、大した事は無いレポートですが、先程の"日月神示"の事を皆様に伝える為にも(実はこちらの意味合いの方が大事かと…)、内容が民主主義に関するレポートだった事もあり、今回引っ張り出して(出て来た?)来ましたこのレポート。

 一応、当時の自分の心境としては、(…今も変わりませんが)易易と首肯出来かねる現状へ不満等からか、主に宗教方面への救いを求めた結果、やはり人間の限界をこそ強く信じる様になり、且つその限界を突破する為に辿り着いた救いが、法然上人の教えだった事もあって、愚者の自覚(今の浄土宗のスローガンにあります)をば促され、そして無知の智も志して、必死に頭を使った結果、やはりその世間一般の常識(常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいうbyアインシュタイン)の方を否定したかったのだと思います。でも書き方や論としてはやはり未熟な部分がかなり目に付くので反省は反省ですorz。

 それでは今回は取敢えず、ほぼそのままでは無く、表記ぶれ及び「てにをは」間違いの訂正や、段落を増やし読みやすくしたりして投稿させて頂きます。

 一応、この同じ政治学のカテゴリーでもう一つ提出したものもあるのでそちらも後日投稿予定。それではいよいよ以下レポートの写しです↓様々に反面教師にして頂いても構わないので宜しければどうぞ。


課題:政治学 設題番号XX

現代に於ける議会制民主主義の危機について述べよ。

 そもそも議会制民主主義の危機とは、その制度自体よりも、それを運用している我々人間にこそ、その原因を求める事が出来るものであり、そしてその原因はこの19世紀〜20世紀に成し遂げた近代化により大きく変貌した人間の在り様に由来するのだ。ならばどの様な出来事が我々の在り様を大きく変えたかを考えた場合、先ず民主主義が挙げられるのではないだろうか。

 現在我々の国家の基盤ともなっている民主主義は「主権」と「領土」と「国民」という三つの概念を新たに提唱した。しかし、この中の主権というものは余りにも主張し過ぎると、往々にしてエゴイスティックになるだけであり、そのエゴは高度に発達した科学技術が支えている快適な生活の中で知らず識らずの内に膨れ上がっていく。そして、最近見られるクローン問題が示している様に倫理や道徳は風前の灯となり、また地球全土の自然環境も深刻な危機に晒される事となった。

 次は領土である。領土はそれを主張する際の根拠の求め方は様々で、古代や中世ではその国の君主や体制に左右され拡大や縮小を繰り返し、最悪の場合はその全てを失うというものであった。又、近代では、近代的資本主義的帝国主義の下で行われた植民地政策により幾つもの国が植民地化され不当に蹂躙された。そしてその名残は、今日の世界地図のアフリカ大陸の大雑把で角張った国境線等に表れている。

 極端な話、領土とは人間が勝手に描く事が出来る縄張りの様なもので、比較的流動的且つその時代に力のある国々が左右する様な事もある不確かな代物であり、結局領土という考え方は人間のエゴと所有欲を形に表しているに過ぎないのだ。だからジョン・レノンは「イマジン」をそういった事を否定する事意味も含めて歌ったのである。

 そして国民については、一民族=一国家の原則を推し進める余り本来の民族性等を無視した不自然な国民が生まれ、一つの国の中に多数の民族が生活している場合は、少数派の民族の扱いが問題になり、その中の具体的な例に中国のチベットに於ける民族浄化が挙げられる。又国家の形態と国民という意識に縛られ過ぎた現代では、ヨーロッパ等で移民の流入量の増加に伴い治安が悪化し、それに対抗する形でナショナリスト等の右派の台頭が取沙汰されている。

 しかし、本来国民とは、その所属する国家が滅べば同時に消滅し、また時代の移り変わりによってそれまでとは違う国に編入されて昨日までとは違う国の民となる事態も起こり得る儚く移ろいやすいものであった。しかし、近代に提唱された社会契約論に基づけば誰もがどんな国の国民にも成れる筈なのに、我々は未だに肌の色や生まれを持ってして自らを証明しようとしている。

 これ等の出来事を見ると国民という考え方は我々のアイデンティティを国家に帰属させる形でより一層強固なものにしたが、どの国の国民となるかは自らの希望とかけ離れた所で左右される場合もある上、強化されたアイデンティティは現状に対する執着をも生み出し、より一層人間を保守的で変化を拒絶したがる狭量なものにしてしまった。これ等の事を踏まえて結論を言えば、民主主義とは結局大衆のエゴの発露なのだ。

 それならば何故、こういった思想が近代に於いて躍進したのか。それは、近代化以前のそれまでのヨーロッパ全土が、キリスト教や王制支配の強い影響下にあった事が挙げられる。

 世の中の大体の宗教は、神様という絶対的な権威の名の下にそれを信じる者を束縛するものである。その束縛、つまり戒めによって自己を律しようとするのが諸宗の目的の一つであるのだが、然し、人間はその欲望故にそれらの戒めを破るものである。つまり近代の始まりの中には、新たに登場した科学が垣間見せた斬新な新しい時代のビジョンに刺激された民衆の欲望と、それまでの宗教や王制による絶対的支配の中で鬱積した不満が、爆発的なエネルギーとなって働いたのでは無いだろうか。そして、ニーチェの「神は死んだ、超人よ生きよ」という言葉は、良く言えばエネルギッシュで、悪く言えば唯我独尊的な、そんな近代の象徴なのかもしれない。

 しかし、宗教や君主といった権威から独立した人間のエネルギーは、今日に至る迄迷走を繰り返し、最早袋小路に嵌った感がするのも否めなく、人間は確かに、自らの求めた快適さや利便さを手に入れる事に成功したが、それと同時に、この混沌とした現在の世界情勢をも創り出してしまった。

 ならばこれから先この混沌として世界で我々はどう生きていけば良いのだろうか?民主主義の名の下に行われる現代政治も最早正常に機能せず、かと言ってその失敗が火を見るより明らかな社会主義体制にその拠り所を求める訳にも行かないのが我々の現状である。せめてこれからは、環境事業等に希望を見出したいのだがそれら推し進め様とすれば、環境事業の性質が多くの企業の利益に反するが故に、実行の際には多くの障害が懸念される。

 これらを解決するには、議会制民主主義の危機の原因である、金が掛かり過ぎるという点を先ず解決せねばなら無い。では一体何故政治に金が掛かるのかというと、これは民衆と政治の距離が開き過ぎている事に由来する。つまり一般市民が政治に対して積極的関与を試みようとしても先ず選挙活動に多大な資金を要し、纏まった票を期待する場合どうしても公共事業の利権にありつける土木関係の企業を味方に付ける等しなければならず、こうした後ろ盾を得られなければ今日の選挙は勝ち抜けない。もし運良く議員等になったとしても、結局自らが所属する政党の言いなりとなるのが関の山であり、又そこから上り詰めようとすれば議会政治の場合、党内に於いて多数派工作や抵抗勢力との闘いを経て、いつの間にか雁字搦めになって自分の思っていた政治とかけ離れた内容になっているというのはよくある話である。

 こうした事態の解決の為にも政治の裾野を広げ、これから政治に参加しようとしている若者や、安らかに老いを生きて行ける社会を心待ちにしている老人、そして子供達の為に少しでもより良い未来を望む全ての母親達がもっと参加し易くして「政治に金が掛かり過ぎる=企業等の献金に頼らざるを得ない=政策が企業有利に傾く」という悪循環に歯止めを掛けなければならない。

 その為にすべき事は何か、それは、今日のグローバル時代こそが内包しているのだ。今日のグローバル時代では我々の様な一般人でも、世界全体についてを能く知る事が出来る。これは取りも直さず、世界の広さとかいった、マクロ的な事象を能く能く実感出来る時代になった事を示している。そうした知識や実感によって我々はグローバル的な広い視点を持つ事が出来る。そしてそのグローがルナ視点こそが近代の始まりから今日迄脇目も振らず突き進んで来た我々が本当はエゴイスティックで狭量な考え方の持主であった事に改めて気付かせてくれるのだ。

 そうなれば一般の人々でももっと自由に日々の生活の在り様を考える事が出来る様になり、自然環境を顧みない大量生産・大量消費、過剰とも言えるダムや道路の建設、そうした行いによって利益を上げる多くの企業を良しとしない人物も現れ、そしてそうした人物こそが票を集める様になるのではないだろうか。謂わばまさにその時こそが、本当の意味での近代化の第一歩を踏み出した時である。そして願わくばその時が少しでも早く訪れる事を望む次第である。


↑でレポートは終わりですが、結のオチの部分についても今の自分の考えとは違いが出てきています。今の自分の考えとはやはり日月神示の一節の↓

”平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ。天地をよくみよ。人民の申す如き平等も公平もないであろうがな。一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ。一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ。選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。”

↑といった御告げ方が正しいと思っています。やはりグローバル主義だけではまだまだ人間のエゴイズムは克服されないでしょうし、空の深さを知る井蛙の心の方がまだ迷いも少ないのではないでしょうか。

 ・・・ある合気道の先生が受けたという啓示に”天地自然を相手として宇宙と一体化せよ”という御告げがあるそうです。天(上宇天・上天涯・上天・下天・下天涯・下宇天)・地・人の三位一体の立体の数の尊さを人類全員が悟る。そして願わくばその時が少しでも早く訪れる事を望む次第である。

 

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