攪乱の句の、その終わり

「俳句四季」4月号の精鋭16句欄に連作「like a ghost」を寄稿しています。この連作は一言でいえば俳句との「歌のわかれ」、最後の俳句作品で、以後俳句を書くことも新しく俳句を公開することもしないつもりです(追記:今まで書いたものを作品集にまとめる心づもりはあります)。「like a ghost」は16行からなる同名の詩に16句が並置されている構成ですが、これは実験的な意図というよりは、定型律などへの違和感から、もはやそれだけで俳句を書くことが困難だったことによるものです。

 俳句を書くのをやめにする理由はいくつかありますが、最も決定に影響していてかつ穏当な理由は、自分が書くことを通じて試みたいことと、俳句という形式の間との乖離があまりにも大きくなっていたことです。2022年の1月ごろからそれが自覚されるようになり、以降試みられていたのは俳句との関係をなんとか延命することでしたが、より適切な形式が存在することへの確信が強まるばかりで、いつしか延命はほとんど断念されていました。それに伴って4月号の原稿も遅れ、東京四季出版の上野さんには多大なご迷惑をおかけしてしまいました。ここにお詫び申し上げます。

 それではわたしが試みたかったことが何だったかというと、散文とは異なる話法を用いることによって(俳句では助詞や語順や単語同士の接続関係、コロケーションを混線させること、造語を用いることなどがありえます)、「表面」とされているシニフィアンと「深層」とされているシニフィエとの間の区別を攪乱すること、そのことによって言語をクィアしていくことでした。あるいは規範的な読解のあり方——たとえば二人称をめぐる異性愛的な前提や、季語そのものに組み敷かれた読みの前提が存在すること——を攪乱することでした。この方向性に舵を切っていったのは2018年の4月ごろで、しかしこの志向への自覚が強まるにつれ、俳句でそれをすることの困難さを実感せざるを得ませんでした。

 ひとつには、俳句の読解がその定型の短さによって、俳句をめぐる共同体の中で共有された季語や単語のイメージを引き出すことに大きく依存しているためです。そこで読み取られないことによってほとんど書き得ない領域に追いやられるものが何かというと、非規範的な(あるいは季語に関して言えば、非-本州的な)生や生活のあり方です。だからこそ攪乱に賭ける価値があると感じていましたが、率直にいえばわたしの試みは相当に分の悪い賭けでした。熱意があればこそ賭け続けることができるが……という類の。攪乱への志向が高まるにつれ、より適切な形式の希求が強くなったということも否めません。

 そこに追い討ちをかけたのは、俳句共同体のなかで書くことへの倦みの堆積でした。まずひとつに、そこではシス・ヘテロ的な前提やバイナリーな前提が当然のように組み敷かれており、漠然と息苦しかったこと。もうひとつはホモソーシャル(バイナリーが強く前提とされている界隈なのでこの語を用います)によって俳句をめぐる議論の場から疎外されていると感じ続けてきたこと、そしてそれを指摘することの効力のなさを幾度となく実感したことです。これに関しては企画の構成員が「『偶然』『男性』のみになった」というような理由づけをこれまた幾度となく聞きましたが、作家の少なさないしは商業誌の批評性の機能しなさを鑑みればある程度人間関係のなかで企画は回っていくし、その居心地のよいホモソーシャルな人間関係をそのまま適用すればそうなるのも当然のことと思います。これは規範から締め出される事柄を書くのが、それが読み取られるのが、非常に困難であることと地続きの問題です。ともあれ、人間関係そのものが俳句をめぐる言論空間とほとんど重なること、そこから疎外されることによる無力感は熱意を削り取っていくには十分なものでした。

 ということで、今後は研究のほかに現代詩を細々と書いていくことになりそうです。共同体のなかで書くことへの倦みと読まれたい気持ちとの間で揺れており、どういう場で書くことにするかはまだ決めていません。

 ただ、わたしの賭ける場所は俳句ではなくなったけれど、俳句を選び取った理由は確かにあったのだ、ということもまた書き残しておきたい。たとえば、言葉の奇妙さの異彩を閃きとおなじ瞬発力で強烈に残しうることがそれでした。けれど、確かに俳句だっただけに、一度は俳句に賭けただけに、そぞろな気持ちでそれを書き続けるという選択がありませんでした。

 また、わたしの出自が——読み書くことを通じて世界に触れ、出会い、変容させるという試みのはじまりが俳句にあるということもまた、蔑ろにしたくないことです。ジャンルにとっては不幸なこととも言えますが、俳句は表現史を見据えて書く人の少なさゆえに、表現史を見据えて書く書き手は批評と創作の両方を(比重は人によりますが)ひとりでこなす必要のあるジャンルでした(表現史の参照はどのジャンルでも重要なことではあります)。これはわたしにとっては僥倖で、創作と批評のサイクルを絶え間なく回し続けてきたことが、研究をするうえで必要なものを養ってくれたように思います。共同体に向けた発言の機会はさておき、出入りしていた句会がかなり分け隔てなく話ができる空間で、そのことが議論への慣れにつながったことにもずいぶん助けられました。また、批評のために美学の門を叩き、文学理論や哲学に触れる機会を増やしたことがいくつかの奇妙な結びつきを経て、バトラーに辿り着かせてくれました。間違いなく、俳句を書き始めていなければこんなに遠くまで来ることはできませんでした。しかし、それゆえに熱が醒めたまま書き続けることの虚しさに耐えられなかったのだと思います。


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