しょうもない自分で生きていく。
熱海に行ってきた。
伊豆大島に行って
くさやを食べたいと思っていたところを
一週間前に変更して。
理由は、会いたい人がそこにいたから。
だからこそ、会いたいと思った。
その人の名前は、坂爪圭吾さん。
この方の存在は、学生時代にSNSでご本人のブログを通して知った。
胸に響くど直球なメッセージが綴られている
坂爪さんのブログ。心の内を読まれたようなドキッとする言葉が多く、耳が痛いと感じる内容もある。いや、そんな内容ばかり。それしかない。笑
でも、その痛みは自分にとっての真実だという核心めいたものもあり、これらの言葉を残している彼にとても会ってみたくなった。
そして実は、学生時代に一度お会いしたことがある。当時『おはなをくばる』という活動をされていて、ほんとに、おはなをもらうだけもらった。笑
会えて満足したのか、特に理由はなくなんとなくその後はブログもSNSでも見ることがなくなっていたけど、今月の頭ごろからFacebookの投稿をたまたま拝見し、また読み出すようになった。
あの頃から少し時間が経ち、
"社会人"になっていたわたし。
社会の常識に
ハマらなければ、できなければと思い焦った。
無理だとわかって諦めた。
それなら好きにやってこう!と希望を抱いた。
そう割り切ったつもりでも、心のどこかでこれで大丈夫なのかと不安は抱えていて、、、と
この数年、わたしなりに
いろんな自分に出会ってきた。
だからなのか、その分以前の5割増くらいで
言葉のひとつひとつがわたしの心に刺さってくる。
うっ。
痛い。
、、、でも、
だからこそ、会いたい!
会って何が変わるわけでもないかもしれない。
それでも動かないのは違う、という感覚だけはあった。
そして、たまたま伊豆大島に行く計画をしてた日程で熱海で日曜礼拝という坂爪さん主催の会があると知り、伊豆大島行きのフェリーをキャンセル。熱海で過ごすことを決めた。
怖さの正体は、案外しょうもない。
決めたものの、会える楽しみと同時に
怖さもあった。
会ってしまうと、わたしの心の奥にある
自分でも気づいていない、
気づかないように蓋をしているナニカを
見透かされそうで、、、。
そんな楽しみと怖さが入り混じった気持ちを
「ま、楽しんでこーぜっ☆」
と吹き飛ばしたつもりで向かった日曜礼拝。
主に参加者がその会のテーマについて感じていることを話したい人が話す、というような会だった。(でもスタートやその時々の必要に応じて、流れを整えてくださっていた)
初対面の全国各地から集まった
老若男女を問わない十数名の人たち。
それぞれの経験と意見と思いと悩みが
言葉になったり・ならなかったりして、
その空間をつくりあげていた。
心地よさも悪さも感じるソレが面白いな、
なんて思いながら、わたしは坂爪さんがどう感じてるのか気になっていた。
会自体が終わってからは自由時間。
パラパラと人が帰って行き、人が少なくなってきた中で彼が今日の会について感じていたことを少し聞くことができた。(内容は坂爪さんのnoteに議事録として書かれている。)
それを聞いて、
あぁ、この人はこの会を
"観て"いた、見届けていた、んだなと思った。
話す内容ではなく、その人がどういう想いでその言葉を発しているのか、その言葉がどこにどう向かっているのか。沈黙があってもその空気感がどう移り変わっていくのか。
会を主催しているからこうしなければ、というのではなく、ただ次になにが生み出されていくのかを目を開けながらも違うどこかでじっと、見ていたようだった。
ただ、じっと見るって難しい。
どうしても自分の概念や偏見が入り込んでしまうように思うから。
でも坂爪さんが「観て」いたんだと思ったとき、それは概念や偏見をはらむ一面からの視点ではなく、人にも空間にも流れているものを全体として見ている、そんな感じがした。
そう思うと見透かされるかも、なんて
思っていた自分が恥ずかしくなった。
"見透かす"という言葉が出てくるということは
自分に隔たりがあるということだ。
自分に隠してるものがあるということだ。
自覚しているはずのソレを知らないと誤魔化した上で、自分に意識が向けられると思っている思い上がりな自分が、心底恥ずかしくなった。
そして、それに怖さを感じていたのだから、
怖さって案外
しょうもないことなんだなとも思った。
「生きている」、そう感じたかった。
会も終えて、熱海を出て帰宅。
少しだけメッセージのやり取りをさせてもらった。
その中で、こんな言葉をいただいた。
(すみません、沁みて残したかったので載せさせていただきました)
なんだか救われた感じがした。
これまで、理想と現実の間で行ったり来たりしていた自分。特に社会人になってから強くこの狭間への意識が強くなり、葛藤する種類の幅も、それに合わせて葛藤する頻度も多くなっていた。理想を手放そうとしてきた今も、やはりあんな風だったらいいのに、という想いが顔を出すことはある。その葛藤で弱さを感じるたびに、自分の命のど真ん中ではない感、欠乏感を感じていた。それが惰性で生きている、そんな風に思えてしまうこともあったりなんかして。
でも、この言葉をもらって、そんな悩みこそが生きてることなのだと、コアなのだと、わたしなのだと言ってもらえたような気がした。すごくしょうもないことで悩んでしまうわたしも、ちゃんと生きていたんだ。本当に命を燃やして、今を生きていると感じられる人からそう言ってもらえたことは、大きな勇気になった。しょうもない自分で生きていく勇気になった。
わたしが坂爪さんに会いたかったのは、あの衝動は、自分が「生きている」ということを感じたかったからなんだろうなぁ。
日曜礼拝に参加しているみなさんも、いろんな気持ちを抱えていたと思う。勝手ながら、みんななにかを抱えながら一生懸命生きてるんだなぁと思った。
もう少しでわたしは27になる。年齢は関係ないとはいえ、節目として大事にしているものではあり、この先のことを漠然と考えたりしていた中での今回の出逢い。
同年代の人たちのように職業や家庭など、特に定まったものがないわたしだけど、彷徨いながら、葛藤しながら、生きていこう。
そう思えた出逢いだった。
ようやく隠していたもう一人の自分が顔を出し、手を繋いでともに歩き出せそうな気がする。
大丈夫、踏み出そう。
そして、命を燃やそう。
愛はバーニング!
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