波ノオト(3)技・業
ふと思ったので今日はさっくばらんに。わざについて
ちょいちょい抽象的なことについて考えることがある。今日は技術って要は出力することなんかな?とふと思ったことについて
AIや未来科学の話しなどしていると、でも技術は革新していくから乗り越えていくでしょとか、新しい技術でなんとかなるやろという意見をちらほら見る。システムエンジニアをしているわりには自分はそういうところは悲観的なんで、そうは言ってもねと思うこともある。トレードオフなところがあるんですね。技術的には乗り越えられるものでも運用できるかとなるとまた別な問題もある
また、偉い人とか頭のいい人は、話すのが上手だが、あれは話術の技術が高いとも言えるなと。言葉の使い方や組み立て方もまた技術か
つまり技術とは、どういう風に出力するか。
言葉を並べて論破する文章として出力したり、地震で崩れないように木材を合わせて建物にしたり、音の省略と対比で印象的なシーンを表現してみたり、技術を通してなんらかの成果物が出力されるそういうことなんかなと
でもそもそも技術ってどういう意味なんやろう。「語だと「わざ」かな?
ここで辞書を引いてみるといくつか意味が出てくる
たくさん出てくるが、おおまかにみて3つ
・出来事の「事」で、行事や仕事のような意味合いで使われている
・仕業や職業の「わざ」であり業となる。習慣化した行為や意識的に行う行為が業である
・技芸や技術で、わざ(技)
事というのは今ではあまり使う言い方ではないので、技と業か
この二つの違いは卓越した難しいことが「技」で、意識的に行う事が「業」かなと
次に英語の技術にあたる言葉:テクニックを調べてみる。いまではBigTecとか呼ばれたりでITテクノロジー全盛期。IT技術の時代です
テクニークとテクニックすね。どっちを英語として習ってたのか覚えていません。。まあそこは置いといて、テクニックは技術的という意味でテクニークは芸術や音楽の批評で使われたとある
どちらも由来は同じでギリシャ語「tekhnikos」「芸術に関する、芸術によって作られる」に由来し、tekhnē「芸術、技能、工芸」から由来してそうだ
それでtechno-を調べてみると
techno-、テクノは芸術・技術・技能を意味する言葉で、仕事の芸術や行う方法という意味があると。さらに元は印欧祖語teks-na-でteks-にたどり着く
ここで「織る」という意味の原始インド・ヨーロッパ語根にたどり着く
布などの織り方や織る方法をteks-という言葉に結びついていったようだ。織物は適当に織ってもほどけてしまうし、ごわごわしたものもできたりする
それをうまくやる方法がテクニック=技術ということなんだろう。
また、織物は献上品でもあったから、綺麗に見える織り方や模様が見える織り方なども出来ていったことだろう、これも同じように技術となり芸術の意味合いも含んでいったのではないかな
ちなみにteks-から派生したと思われる言葉でtextがある
ラテン語のtextus「作品のスタイルやテクスチャー」は文字通り「織られたもの」という意味で
とあって、織られたもの、編まれたものから聖書へと結びついていったのかなと思う。最も普及していた文書は聖書だっただろうし
ここで引用文があるのでみてみる
古代の比喩で、思考は糸。それを紡いで織りてテクスチャ―ができた。
色んな思考を寄り分けて紡いで時に他の糸と織り込んだりしてきれいな織物ができる。そのやり方を技術と呼んだと
技術、技術は確かに大事で、技術があるから頑丈なものができたり、きれいなものが出来たりする
しかしそのためには糸が必要。つまり元となる資源
AIに関して言えば技術だけでは成り立たず資源がなくては何も作られない
インターネットのおかげでたくさんの文章や文献、ニュースがあるので、生成AIはできている。
絵に関しても色々溢れている絵や写真、動画、素材があるので絵の生成が出来る
ただ現状を考えると2次元ソースからしか生成できないので、色んな破綻もある
こちらのサイトに書かれているような通りのことすね
絵でいうと現実の3次元の風景を人が見て2次元の絵にしている
そこには油絵や水彩画などの絵具の種類や筆の種類、筆の使い方、陰影や遠近、強調省略などの描写の技術が絡んでいる
技術があればある程度のものが出来上がる。しかしその風景のリソースや心理状況、表現したいもの、変化していく風景や過去の記憶があってユニークな絵ができる
インプットが一つでも技術があれば種類がつくれるが、インプットがたくさんあれば掛け算で色んなものが出来る
今チャーリー・チャップリンの本を読んでいるが、彼は幼少期の頃、救貧院で生活していて父母も大変な状況でそういった経験が喜劇王となるベースにもなった
夜と霧を書いたヴィクトール・フランクルはナチスの強制収容所に収監された経験があの名著を書かせたし
山本七平は太平洋戦争でフィリピン出征のあとマニラの捕虜収容所に収容された経験が評論家や作家としての作品に生かされた
山本七平氏の著書には日本軍は技術一本やりだったというようなところも出てくるが
島国でリソースが決まっている日本ではリソースが限定的で技術で克服するしかないというような文化があるのかなとも思う
ただその結果として技術信仰になりがちだが、リソースも大事にしないといけないし生産していかないといけないだろうなと考えている。アメリカはリソースから変えてくるので技術で上回ってもそのあとゲームが変わって太刀打ちできない。日本はリソースを消耗してしまう
自然のライフサイクルで考えると、
イネや小麦が太陽エネルギーと肥料や水を得て実がなる。この過程は生産と呼ぶ。この実を食べれるように加工したり小麦粉から麺類などを創り出すのは、技術。ロスが少ないように加工したり、付加価値を高めて希少品に見せるのも技術。でも技術でなんでもできるわけでもない
また、生産にあたってはエネルギーが必要。太陽光だったり人力だったり、一種の化学変化を起こすためのエネルギーが必要
技術によって食品となった後は食べて消化されてさいごは微生物に分解されて土に戻る。
自然界のライフサイクルでは生産(植物)、消費(動物)、分解(微生物)で太陽光からエネルギーを同化させて、そのエネルギーを消費する、残った物質は分解されてライフサイクルができている
これが人間界の文芸なんかだと、記憶(資源)、加工(技術)、消費(人)、分解(評論)のような形になっている。
AIの言葉や絵のように社会科学的なものだと、具体的なものを作っているというわけではない。絵画や彫刻など結果として物理的なものはあるけど
しかし技術だけで何かを生み出せるわけでもない。生み出せたとしても同じリソースを加工しているだけなので形を変えたものだけが増えていく
かといっても資源となる記憶や知識だけではそのままとなってしまう。
記憶や経験知識というのがあって、それをもとに強調や省略繰り返しなどの技術で加工されて、小説や映画、論文や政策が作られていく。そしてまた記憶や経験となる
書いてしまえば当たり前みたいなことなんだけど、最近のものごとの捉え方はそういう循環サイクルが大事なんじゃないのかなと思っているので書き出してみた
何かだけが優遇されて、何かが軽視されていたりしてないかなと
こういうサイクルを人の手を使って人為的に回そうとすると、それがシステムと呼ばれるもので社会システムや公共システムとなっていく
システムが崩壊するのは循環の輪がどこかで切れてしまうからで、リソース不足とかなら新しくそれに対応したシステムを作るしかない
逆に切れずに回っていればそれがSDGsと呼ばれる感じで持続可能なシステムになる。だから続けば続くし切れたら新しいシステムでイイと思うけど
このシステムの穴を見つけて抜け道を通ったりするということがある。元の言葉からは変わっているけどそれをライフハックとかのハックと呼んだりする。これについてはまた機会を改めたい
さて日本における技術とは、技なのか業なのかそれとも・・?
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