パラダイムシフト

今、少し何かを掴みかけたかも!!!思わず興奮して筆をとる。(タイプする)

今、どうしても開けていないメッセージがあって、2日間くらい放置してしまっている… どうしてこんなに開けないのか、いずれ必ず開かなければならないのにどうしてメッセージを開けるのが怖いのか・・・

これは、もう分析しないと前に進めないと思って、A4のコピー用紙の裏紙に、分析をしてみようと思って、ぐちゃぐちゃと書いてみた。

大抵、メールやLINEのメッセージを開けないときは、「何を言われるか分からない。人の言葉で衝撃を受けることが怖い」というのが表面的な意識であるが、それを掘り下げていくことにした。

「なぜ人の言葉に衝撃を受けると思うのか?」という質問に対しては、ずっと自分が「繊細」で「敏感で」で「傷つきやすい」からだと思ってきた。

人の言葉に衝撃を受けてしまうのは、たぶん、その相手のことを正しく理解できてないからなんだと思う。一言でいえば相手を信頼していないのだ。これはほぼ全ての人に対して、きっと信頼感を持っていないんだろうと思う。「全人類、敵だ」くらいに思っている。たとえ、相手が超絶いい人で、「力になりたい」と思ってくれていたとしても、「しょせん、人間関係はギブ&テイクで、自分に旨味がなくても純粋に力になってくれる人なんてこの世にいないだろ・・・」という穿った目で人を見てしまっている。

そこで「周りの人が敵だ」と思えてしまうのはなぜだろう?と考えたとき、おそらく、自分が本音を隠していること、ええかっこしいであることがあると思う。究極のシャイでプライドが高い。そして、比較的、パッと一瞬で相手のニーズを感じ取れてしまう力があるせいだと思ってきた。

それゆえ、ずっと、「本音を言って何か言われること」にすごく傷ついてしまうのだと思ってきた。

そこで、一歩掘り下げて、「その自分の本音とやらも、別に本音ではないのかもよ?」という問いかけをしてみた。

そこで何か、飛躍しすぎかもしれないが、視点のパラダイムシフトが起きかけたような気がした。

「私の場合、興味の幅が狭すぎて、空っぽすぎるから、他人が「未知」の存在すぎて、怖いのかも」

というアイディアが降りてきた。むしろ、「究極の鈍感なんじゃね?」という仮説である・・・

思い返せば、たぶん、小さい頃から、興味の幅が狭すぎて、狭くてもそれを探求していこうという指向があれば研究者にでもなるのかもしれないが、自分の場合、それを深堀しようという気もなくて、ただ何も考えずにそれを反復していればOKな性格なため、「空っぽ」人間になってしまうのである。

そして、他人とあまり交われない。元々閉じている。だから、普通の人々が、成長の過程で、自然と身に付けていく人との交流のノウハウを身に付けられなかった。それは、学校などでは、「反復練習」さえしていれば、何も考えずにそれなりに過ごせてしまうからである。発達段階でその課題をガン無視した結果、他人が全く理解できない存在のまま、大人になり現在に至ってしまったのではあるまいか。。。

小学校や中学校時代に、あまりにも友達とうまくやっていけなくて、というより、なんか、傍若無人で本当に嫌な奴だったんですけど、思いやりのかけらもないような。。それが本質だとして、それでも人間社会で上手くやっていくには、形だけでもいい人の振る舞いをしないとダメだと察して、心を伴わずに、社会で「いい人」とされる言動を形成してきたきらいがある。

親からも、「友達と遊べ―、もっと積極的にー」と言われ続けるのがすごーく嫌で嫌で仕方がなかったけど、もしかしたら、「興味の幅は狭い割に、探求はできずに、何も考えずに反復してればOK」な自分の本質を、これまで全くもって認めずに、否定して、心の奥底にしまい込んでいたことが、全ての根っこにあるような気もしてきた。

そんな人間、人間社会では間違いなく「落伍者」「ハブ」になる要素満載で、原始時代なら足でまといとして集団リンチで殺されていたような性質を持っている人間だと思う。

話が収集つかなくなってきたが、つまり「自分の本音を言って、何か言われて傷つくのが怖い」ということって、おそらく、「自分の本音」というものも、実は社会から求められている「本音」を自分の本音と勘違いしているんではないかという大胆な仮説である。

本音を否定されると傷つく、と思っていることも分解していけば・・・

「え?これって社会でのぞましいとされている「本音」じゃないの?」折角これまで無理をして「社会での望ましい人間の姿」を身に付けてきたつもりなのに、、え?違うの?とパニックになってしまうのではないかという仮説である。

その根底には、激しい自己の性質への不信と、否定がある。

興味が狭く、空っぽな人間という・・・

だから、世界が未知すぎて、未だに世界や他人が非常に怖いんだろうと思う。

結局のところ、恐怖や不安を少しでも減らすには、世界を知り続けて未知な部分を減らしていくしかない・・という単純な結論に陥りそうである。

そして、「何も考えずに反復してればOK」な自分の性質を、認めることはリハビリになるのかもしれない。結局それじゃ、人間社会ではだめだ。という長年の強力な思いがあって、でも、そういう人間もいたっていいんじゃないかな・・・(おそるおそる・・・)という段階です。強い長年の呪縛は忘れないようにしつつ、少しは自分の性質を肯定しても良いんじゃないかと、その方が力が抜けるんでないかと。

今は、鈴虫たちをボーっと眺めるときが一番幸せです。

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