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想いの詰まった時間

 先日とても素敵な授業を見た。今年からご一緒している私の教室のスタッフの授業。彼女は小学校教師の経験を経て海外に渡り、英語教師としての新しい一歩を踏み出すことを意識して、私のところに来た。私のささやかなつぶやきに共感して、遠いところからご連絡をしてきた、という不思議な経緯。でもそれがあったので、この方は私と想いが同じ方なんだ、という安心感はあった。

 お会いして雑談の様にいろいろ話をする中で、それは確信に変わっていった。そして数ヶ月のレッスン補助の後、レッスンを担当してもらった。人としてのどっしりとした安定感、温もり、そして明るさのある彼女の授業に私は魅せられた。そして先日の高学年レッスンで、私はほとんど生徒目線で彼女の想いにどっぷりと浸かることになるのだった。

 思えば児童英語教育は、独特の世界がある。英語を教える技術はほんの2割程度で、後はセンスと感覚。子どもたちのその時の気持ちや波を読み取って寄り添う、という繊細な感覚が必要だと私は思っている。言葉の使い方を教える、ということは本来そういうこと。その中で、どこまで英語を使うことが適切なのか、またどんな風に「考える」きっかけを与えるべきか、そういう感覚的な部分がとても多いのだ。

 彼女はその日自分に起きた出来事を英語で語り、子どもたちがそれをじっと聴いていた。8割以上その子たちが理解できるような言い回しやスピードで上手に伝えていた。そして話の中にあった駅で手渡された、という広告を実際みんなに見せる。
「その広告見てどう思うかな」子どもたちはそれを見つめて、考える。しばらくして、子どもたちは数点の日本語の間違いに気付いた。彼女はその間違いを見つめる子どもたちの目を「温かい」と表現し、この広告を作った人に想いを馳せた。そして「愛おしい」と表現したのだ。

 自分の国の美味しいものをこの国の人にも伝えたい、そう思ってレストランを開いたある外国人の作った広告。間違いだらけだけど、それを温かく見つめる現地の私たち。それは即ち、海外の方につたない英語で向き合う私たちの受け入れられ方に繋がっていく。その後のレッスンで子どもたちがよくチャレンジしていたのは、偶然ではないと思う。一生懸命伝えようとすることを、「愛おしい」と温かく見守ってくれる人がいる。それを実体験として双方の視点で伝えた彼女のレッスンは見事だった。

 先生が高学年の子どもたちに問いかけ、発見や考えることを促して、それを子どもたちの実体験にプラスに繋がる経験に変えていく。そんな時間が日常の中にある子どもは幸い。

 私もよくレッスン中にわざと子どもたちにじっくり考える機会を与える質問を投げかけることがあるが、その時に「じーっと考えるこの時間がもったいない」という生徒には、「この時間こそ私たちには必要なんだ」と伝える。即席で答えが出ることに、大した意味はない。むしろ今失われつつある「じっくり考える」時間を大切にする人たちが、今後活躍してくれることを祈っている。

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