Lust ラスト

2月にしては暖かい夜だった。行きつけのBARで一人ハイボールを飲んでいたら、女性に声をかけられた。ちょうどグラスの最後を飲み干すところだった。

「酒井さんですよね?覚えていませんか?以前仕事でご一緒した駒野です。」

フワッと甘いシャンプーの匂いがわたしの鼻腔を刺激したと同時に思い出した。大手化粧品会社で働いている女性だった。わたしはその会社のパンフレットを制作したのだった。

「覚えてますよ。」

「どこかで見たことある方だなと思ったんです。それで思い出してお声がけさせてもらいました。」

きっと酔いが手伝ったんだろう。仲の良い女友達とわたしがいるカウンター席の後ろに並ぶ奥のテーブル席で飲んでいたようだった。

「覚えていてもらってうれしいです。ありがとうございます。」

わたしが発した言葉になんだか背中がむずがゆくなるような感覚になった。

「酒井さんが作ってくれたパンフレット、とても評判が良いんですよ。またご一緒したいです」

「機会があったら是非」

こんなところで、ビジネストークをするとは世界は狭いと思った。じゃぁ、と言って駒野さんはコツコツコツとローヒールを鳴らしながらテーブル席に戻っていった。なんだか酔える気分じゃなくなってしまい、お会計を済ませて帰ろうと思ったら、彼女たちも帰るところのようだ。

「お会計ですか?」

バーテンがわたしにたずねた。わたしは

「もう一杯同じものを…ちょっとトイレへ」

と言って化粧室に向かった。一人で落ち着いて飲める場所を見つけたけれど、顔見知りに会うとなんだか通いにくくなるのがわたしの常だった。新しいお店でも探そうかなって思いながらトイレから戻りバーテンが準備してくれたハイボールを飲んだ後、店を後にした。

わたしはデザイン会社で働いている28歳。デザイン系の短大を卒業後に学生時代の知り合いから紹介されて、都内にある従業員が5人ほどの小さなデザイン会社に就職した。経営しているのは30代のご夫婦でパンフレットや冊子、広告や商品のパッケージデザインなどを請け負っている。先ほどの女性駒野さんとは、駒野さんの会社が取り扱う商品のパンフレットの制作の打ち合わせで何度か顔を合わせた。けれど、声を掛けられるなんて思ってもみなかった。タクシーを拾おうと思い大通りに出る。わたしの目の前を横切るタクシーのほとんどが乗車中のランプが光っていた。タクシーをあきらめて電車で帰ることにして近道をしようと路地に入った。この辺りは飲み屋街になっていて人通りも多い。路地裏を歩くとき、毎回わたしは身体にちょっとした緊張感が走るのがわかる。

「あんたらに何がわかるのよ」

どうやら女性数人が小競り合いをしているところに出くわしてしまった。わたしはできるだけ離れて横を通りすぎようと思い端っこの方を歩き始めた。たまにこういうちょっとしたもめ事に出くわすのも都会の楽しみの一つなのかもしれない。当事者ではないわたしは野次馬心で横を通り過ぎようと思ったとき、そのもめている数人の女性達がさっきBARで一緒だった駒野さん達だったことに気づいた。そそくさとその横を通り過ぎて、わたしは駅へと向かった。

駅の入り口で「酒井さん」と呼び止めらて振り返ると、駒野さんがいた。

「なんか、変なところ見られちゃって」

「さっきほどの…、びっくりしました」

明日が祝日で休みだからだろうか、今日の駅は人の往来がいつもよりは少なかった。

「タクシーが拾えなくて、電車で帰るんです」

気まずくなって当たり障りのない会話の始まりを探して出たのはさきほどタクシーを拾えなかったことだった。

「明日休みだからですかね?」

と駒野さんが言った。

「わたしもそう思います。」

下車する駅をたずねると偶然にも、わたしと駒野さんは最寄りの駅が一緒だった。

「友達。は良いんですか?」

「大丈夫。みんな、小、中の時の同級生なんですが、付き合いが長いので、たまに言い合いになることもあるんです。いい大人が恥ずかしい」

「そんなことないですよ。」

 ランドセルを背負った小学生が、母親と父親に手を引かれながら、歩いている。きっと塾かなにかの帰りだろう。

「なんで、酒井さんの事覚えていたかわかりますか?実は住んでるマンションが近いんですよ。仕事で一緒した後、仕事帰りの酒井さんを偶然見かけて。遠くから見かけただけなので、声をかけるのは遠慮させてもらいました」

「そうだったんですか。」

駅に着くと、サラリーマン風の男性が近寄ってきた。

「沙穂。」

「そっちも今帰り?」

「そう。知り合い?」

男性はわたしを見て頭を軽く下げた。

「うん。以前仕事で一緒した人。」

「こんばんわ。」

わたしは紹介された後、そう挨拶した。

「どうも。」

そして、たわいもないそれぞれの仕事の話をしながら歩いた。

「住んでいるマンションここなんです。」

駒野さんは言う。

「じゃ、ここで」

わたしが住むマンションはそこから数分先にある。わたしはほんの少しだけため息をついて、わたしはマンションのドアを開けた。

わたしは3歳の時に養子にもらわれ、本当の両親の顔を知らない。育ててくれた両親は熱心な宗教の信者だった。その信仰をわたしに強要することもなく、ただ当たり前の日常を過ごさせてくれた。実の娘じゃないということを知っていたからだろうか。あまり物をねだらず、争いを好まない子供だった。なぜ実の両親はわたしを捨てたんだろうと考えた時もあるけれど、事情があったにせよ知りたくないという感情が勝ってしまう。素性を知ってか知らないかはわたしにはわからないけれど、そんなわたしを静かな環境に身を置きながら育ててくれた両親には感謝しかなかった。

今、両親は互いの身体をいたわり大事にしながら地方の小さな町で暮らしていた。年末年始を両親のもとで過ごせたことは何よりもの親孝行になった。
結婚適齢期のわたしに対しても、何も言わない。そのことに罪悪感を感じてしまいながらも毎回安心してしまう。

男性との付き合いも今まで数人の人と恋人として関係を持ったことがあった。結婚まで踏み込めないところで毎回終わる。なぜだろうとここ半年一人になって考えることが多くなった。自分がどんな血筋かほかに家族がいるのかいないのそんなことをどこかで感じているからかもしれない。そんなことを人に言うと、きっとそんな大げさなという言葉が返ってくると思う。そんな不安はわたしにしかわかるはずがないのだ。

シャワーを浴びて、外から引きずってきた感情を洗い流す。着替えて、貯まった洗濯物を洗濯機に入れて、タイマーで明日の朝9時にまでに洗濯し終わるようにセットした。

冷蔵庫を開けて、お口直しにビール。キッチン横の小さなカウンターにしまってあったスナック菓子を取り出して、飲みなおす。テレビのリモコンに手を伸ばしてつけてみる。一人の部屋にこの騒々しさは時々わたしを残酷な感情にさせるけれど、今日は考えるのを止めさせてくれる一つの娯楽となった。シャワーの後の火照りを感じ、暖房の温度を下げる。ソファーに座りながら、いつの間にかわたしはねむりについた。

次の日の祝日、わたしは東京に出てきている、地元の友人とランチを一緒にした。彼女は近々結婚するらしい。その報告にわたしはできるだけのやさしさを込めておめでとうと一言いった。ランチの後、その友人とショッピングをして、春用の新作の服と靴を買った。いつもは買わない値段の服をなぜか勢いで買ってしまった。友人と別れてから、買うはずのなかった服の紙袋を下げて電車で帰る。車内は混んでいて、椅子に座れなかった。大きな紙袋をできるだけ邪魔にならないように下げながらドア付近に立つ。できるだけ痴漢に合わないように気をつけるためにドアに持たれながら。視線はおのずと、反対側のドアにある掲示板と路線図に行く。見慣れてるはずのものをなぜ毎回見てしまうのだろう。そんなことを考えていたら次の駅に着くというアナウンスが流れる。わたしは乗り降りする人の邪魔にならないように工夫した。到着して、ドアが開くと下車する人がほとんどで、乗車してくる人がほとんどいなかった。そのことにほっとしながらも、座れる席はない。ドアが閉まり発車しドアにまた寄りかかる。

ふと隣の車両に目を移すとどこかで会ったことのある人に気づいた。駒野さんの彼氏という人だ。隣にいる親し気な女性は駒野さんではない。あの日の帰り道、付き合ってどれぐらいなんですか?とたずねたわたしに恥ずかしそうに、2年ですと答えて顔を見あってた二人。多分親しい友人だろうと考えなおし、わたしはチラチラと気になっていた。すると駒野さんの彼氏と、駒野さんじゃない女の人が手をつなぎながら、歩いて電車を降りて行った。わたしは駅の階段近くに乗っていたので、見つからないようにドア横の手すりに身を隠した。隙間から見るとしっかりと手はつながれていた。二人が降りて行った駅は、わたしが使っている最寄駅からは4駅ほど先にある。次にハッとした。あの女性、駒野さんの友達だ。あの時BARで会って、路地で怒っていた女性だ。他人事ながら身体に悪寒が走る。

わたしは降りる駅に着くと速足で自分のマンションへと帰った。わたしはこの複雑で諸悪が霞める関係性にいてもたってもいられない気持ちになった。わたしに起きた出来事じゃないのに。わたしは部外者なのに。わたしの身に起きたらと思うと怖くてたまらなくなる。

わたしはスマホを片手にとって、連絡先からたまに互いに都合がいい時にあっている男性の名前を探した。出会いは仕事関係で知り合った人。わたしは会えるか会えないかの連絡が欲しいというメッセージを送った。なぜだろう、他人事なのに、わたしには関係ないのに、なんでこんなに苦しくなるんだろう。返事を待つ間、わたしはとりつかれたように様々な方向に蛇行する考えを止める冷静な言葉を見つけられずにいた。

ーおわりー

この物語はフィクションです。


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