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能登の復興をバベルの塔にしないために

はじめに

2024年9月21日から22日の能登豪雨で、能登は大きな打撃を受けました。1月1日の能登半島地震から復興しようとしていた途上での水害。能登のあちこちから「心が折れた」「神も仏もあるものか」という声が聞こえてきます。災害支援は、緊急期、応急期、復旧期、復興期と移行していくと習いましたが、ようやく復興への取り組みをはじめたところで、その取り組みをやりながらも、緊急期の仕事が入り、その無力感にさいなまれております。

キリスト者の特徴

私自身は、高校1年生のときに元素表を習い、この世界に設計者がいると感じ、その化学を教えてくれた先生が「科学とは宗教と対立するものではなく、神がつくった世界を解き明かすために発展してきた学問だ」ということを教えてくれたこともあり、高校2年生のクリスマスで受洗したクリスチャンです。もう、人生の半分以上をキリスト者として生きています。
少し乱暴かもしれませんが、キリスト者に与えられている掟はざっくり2つです。
①神を愛すること ②隣人を愛すること
日曜日に礼拝に行って、神の御心を聞くということを大切にしています。自分の考えと神の御心がバッティングしたときに、神の御心を優先して、行動します。(これが、なかなかできないので、常に悔い改めるのですが。)ちなみに、私たちの「祈り」とは、神様にあれやこれやとお願い事をするだけでなく、自分は何をすべきかを問う「神との対話」でもあります。
で、今年の元旦礼拝では、「神様にやんちゃこいていきましょう」という御言葉を聞いていたわけです。

その後、毎週、御言葉に強められながら、震災復興の仕事を進めてきた9か月間でした。その中で、いろんなルールや制度、お役所仕事にぶつかるたびに、もしかしたらイエス様はイスラエルの中で律法学者に対して、こういうことを怒っていたのではないか?と思うほどに、「愛の業」を成すことの困難さを感じる日々でした。
そして、復興を成し遂げるには、「ネガティブケイパビリティ」を高める必要性を話してきました。「わかったつもり」にならずに、「どうすればよいのか分からない」という状況から、深い理解を経て、時間をかけて復興していくことの大切さです。

「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」とは、どうしても対処できない状況に耐える能力のこと。あるいは、容易に答えが出ない事態にも性急に事実の解明や理由を求めず、不確実さや懐疑の中にいることができる能力を指します。(中略)不確かなVUCAの時代に必要な力として、関心が高まっています。

出典:日本の人事部

能登豪雨の中で聞いた御言葉

能登豪雨で、能登の人たちには、大なり小なり精神的なダメージがあります。支援活動している皆さんも同様です。また、ふりだしからか、、、という気持ちで、モチベーションが上がりません。そんなときは、神様はどう考えているのだろう?と、礼拝に行きます。
ここから先は、9月22日の主日礼拝で聞いた、七尾教会主日礼拝の御言葉を書きおこしたものです。

バベルの塔(創世記11:1~9)

交換講壇を終え、ふたたび創世記にもどってくるときに、10章を捨てて11章のバベルの塔の物語に耳を傾ける。次は12章1節へと続く。系図のところは抜かして、ここに中心を置いて御言葉に耳を傾ける。ノアの箱舟の物語のあと、ほとんどの人類が死んだ。創世記では8人が残った。その後、バベルの塔の物語になっていく。ノアの箱舟のあと、ふたたび人が増え始めた。人々が神の想いに逆らうことを考え始めた。自分たちの力を考えることであり、散らされないようにするために、神様に「目にモノを見せてやる」という形で、神に匹敵する存在なのだということを言うために作り始めたのがバベルの塔であった。
一つの言葉を話しているからこうなる。互いに言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。こうして、全世界にはいろんな言語があって、英語やフランス語やドイツ語を勉強しなければならなくなった。私は、日本語だって難しいのに、外国語までは無理だわということで、あまり語学の勉強はしなかった。日本語の面白さは重要だとは思ったが。
大学院の入試の時に、第二外国語は何かと聞かれて困った。第一外国語は標準語です。母国語は富山弁です、と。それならば第二外国語はなにかね。神の言葉です、と言ったら、北森先生が拍手をしてくれた。そういう冗談が通じる時代だった。そういう話とからまって、バベルの塔の話を聞かされた。君はバベルの塔を体で感じているんだねぇと言われた。そういうわけで、この話には、特別な思いがある。
「これでは、彼らが何を企てても妨げることができない」というほどに、人間に自由をお与えになってくださる。言葉がバラバラになっていることに深く関わっているのは、ここである。

使徒言行録2:1~13

これからペテロの説教に入る。誰もが知っている通り、言葉がバラバラになった。それがペンテコステのときに、同じ神の福音を違う言語で語る。つまり言葉の問題ではなく、言葉によって、心が通じなくなっていった。バベルの塔で描かれているのは、言葉の問題なのではなくて、言葉が一つであったときには、心も通じていた。言葉がバラバラになったときに、心が通じ合わなくなっていった。そこが重要なポイントである。
言葉が一つだということは、心が一つだということなのである。バベルの塔で、言葉がバラバラになるということではなく、心が通じ合わなくしてしまおうという意味なのである。
バラバラな言葉であった言葉が、教会が全地に宣べ伝えよといわれた「神様は私たちを愛しておられる」という、メッセージによって一つの心になる。神の愛という一つのメッセージによって、一つの心になっていく。心が一つになるのだ、ということが語られている。おそらく、松原先生がするなら、そういう説教だったと思う。ストレートなので。
しかし今回は、さらに新しい角度で見てみたい。使徒たちの活動をみていって、ふたたび旧約聖書にもどってきて読んでいる。11章まではおおらかな神話の形を借りて、大切なメッセージを伝えようとしている。12章からは、歴史の中に神様が飛びこんでくださる。人類にとって、大切なポイントがあるとするなら、12章1~3節だと、ずっと強調している。その直前がバベルの塔の物語なのである。なぜ、ここにバベルの塔の物語があるのかをよく味わっておかなければ、分からない。ノアの箱舟までは、どういう物語だったか。

創世記6:5~8

地上に人をつくったことを後悔する。それがノアの箱舟の話である。ノアに向かって語られた言葉もみよう。

創世記6:11~13

昨日、奥能登の豪雨で、こういう被害があったのをみて、ここを引用するのは嫌だなと思った。しかし、今日の司式者の祈りにあったように「なぜ、神はこのようなことをなさるのか」という気持ちになる。神様は地上に人をつくられたことを後悔している。家畜も這うものも。この判断は、今も昔も変わらない。ノアに対して、すべて肉なるものを終わらせるときが来ている。彼らのゆえに、地もろとも、彼らを滅ぼす。そういう決断をされているということを忘れてはならない。どんなことがあっても、神様が助けてくれる方なのだと思うのではなく、神様は、そういう方なんだということを忘れてはならない。なぜ、こんなひどいことが起こるのですかと問う前に、常に自己点検が必要である。それがノアの箱舟の大前提である。神様は、地上に悪が満ちていても、助けてやろうと思うような方ではない。神の正義がないのであれば。ノアの箱舟の前にバベルの塔の物語があっても変わらない。神の裁きがそこにあるのだから。ところが、不思議なことがある。ノアの箱舟のあとに、バベルの塔の物語があるのである。バベルの塔のあとに洪水が来るのではなく。神の怒りが、バベルの人たちにも与えられるのであれば、きちんと滅ぼしつくして、ノアの家族が新しく神の御心にそって生きていくなら、めでたし、めでたし、でよかったではないか。
ところが、「後悔する」と言われた神様の前で、「しかし、ノアは主の好意を得た」と。神様の好意を得て、救いの中に入れられたのである。それにも関わらず、大らかな神話の中であるが、このノアの家族が新しくつくりあげていったこの世界が、、、、

創世記11:1~9

自然のものではなく、自分たちの工夫によってつくりあげたものによって、塔を建てようとした。これは、ノアの物語である。ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは主の好意を得た。バベルの塔では、心ひとつにして、神に逆らう決断をしていく。ならば、またこの中で、ノアと同じように、滅ぼしつくして、新しい家族をつくればいいではないか。

創世記11:7~9

滅ぼしつくすのではなく、心が通じなくしてしまおうとしたのである。一致団結して、神に逆らうのではなく、一人一人が、神に逆らうものであってもよいが、一致団結して神に逆らわなくてもよいようにした。人間同士の心が通じ合わないようにした。組織として、神に逆らってはならぬと言われたのである。全地に散らされたので、彼らはこのまちの建設をやめた、と書いてある。できなくなったのではなく、やめたのである。一緒に神に逆らうものとはなく、個別、具体的に神に逆らうものになった。そういうわけで、このまちはバベルと呼ばれるようになった。心ひとつにして、神に逆らうのではなく、一人一人が神に逆らうものとして立てられていく。そうだからこそ、12章1節以下の物語が大きく取り上げられていく。重要な事柄として取り上げられていくのが、この契約であった。

創世記9:12~16

虹を見ると契約を思い出す

この契約を心に留める。水が洪水となって、肉なるものの命をほろぼすことはしない。だから、悔い改めの福音が語られるようになっていくのである。悔い改めた者たちが、とりなしの祈りをし続ける。あなたたちは、地の塩であり、世の光であると言われた。それが「ノアの箱舟」のあとに「バベルの塔」を置いてくださっている神様の心そのものである。だから、バベルの塔の後に、アブラハムの物語が出てくる。祝福の源となるように。地上に氏族はみな、あなたによって祝福に入る。そして、その壮大なアブラムの旅立ちの歴史のあと、主を生まれさせ、その主に十字架と復活のとの道を歩ませていただき、聖霊の宮としての教会を建てて、そこに集えと言ってくださったのである。教会の一員として、とりなしの祈りをし続けるものとして生きよ、と言われたのである。
あなたたちは、愛の言葉の共通の一致をもとめて働きなさい、と。私が必ずそれを支えていくから。それが聖霊の宮の教会である。バベルの塔の物語は、絶対にノアの箱舟の前にあってはならないのである。バベルのあとに、アブラムの召命と祝福があるのは、なんと素敵なことか。

創世記11:8

彼らはこの町の建設をやめた。神に逆らうこのまちの建設をやめた。このまちは、バベルと言われた。全地の言葉を混乱させ、そこから彼らを全地に散らされたからである。罪の象徴としてのバベルの塔の絵はたくさんある。しかし、バベルの塔の絵がもしあるなら、それは神様がこの人々を救うために、全地に散らしてくださり、そうだからこそ、その人々を愛するがゆえに、アブラムに約束をして、イスラエルをつくり、イエス様を送って、この世を救おうとしてくださった。
すべてのものと同じように、いっしょくたにして裁きの場に引き出すのではなく、悔い改めのメッセージを聞いて、生きるものたちを神様は全世界に散らしてくださったのである。
(2024年9月22日 主日礼拝 釜土達雄牧師)

礼拝後に輪島へ行きました

さて、復興とは?

私たちは、心ひとつにして神に逆らおうとしているのでしょうか。果たして、復興するとは、どうすることなのか。人間の目には復興でも、もしかしたら、神様の目から見たら、良からぬことを思い計っているのかもしれません。神様のことを分かったつもりにならず、御心に沿った復興となるように、神様の御心をわが心として、愛の業に励みます。

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