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失ったものと存在するもの。

いま住んでいる家の中をぐるりと見回す。

あるいは、「住む」という意味では、家に限らず、僕たちはオフィスにも人生の何パーセントか住んでいるわけだから、自分が働いている場所、いまいる場所も、住んでいるところと考えて、ぐるりと見回す。

人がいる。物がある。「こと」が起きている。

いま、この瞬間、という時間や、目に見える物体や現象を超えて、そこに目に見えない何かを見いだす、という思考的な実験が僕は好きだ。

というか妄想するのが好きなだけかもしれないけれど。

たとえば、谷中の空き地を会場にして、「家が家出をしたら」という展覧会をしたことがある。

空き地に、こんな自作の詩を掲出したのだ。


家が家出したら

さよならも言わずに

ある日 家が 家出した

猫と雑草を残したほかは 跡形もなく

いなくなってはじめてしる大きさ

あたりまえのあたたかさ

懐かしいメロディ

駄菓子

色あせた父と母の写真

やさしい詩

夕焼けのころの匂い

そういうものを集めれば

こころにできた空き地は

埋められるかなあ


もちろんそこは家が家出をしたのではなく、ただ単なる空き地だったわけなのだが、「ここの家は家出をしたことにしてしまおう」と決めてから、周囲の住民に聞いてまわったら、ずいぶん前には駄菓子屋があったという話があったのだ。

いずれにせよ、空き地に、こうした言葉が掲出されると、急に、その場所に「新しい価値」が宿ってくる。

見えないものがふわりと見えてくる。

かつて、そこにあったもの。

いつか、そこにあるもの。

たとえば、ひとつの物があったとき。その物の先に、あるいは後ろに、あるいは手前に、あるいは奥に、何があるのかを考えてみる。

空間の前後、時間の前後、能動と受動。

すべての物は、必ず、別の何かとの「関係のもとに」そこに存在をしている。

パズルのピースのようなイメージを想像することもある。

ある物がある場所にあったとして、その物を静かに静かに取り外せば、その物のかたちが欠けたパズルのような空気がそこに残るのではないか、と。

僕は、僕以外のかたちによって、パズルのピースとピースのように、かたちづくられている。

僕の優しさは、誰かの心に何かを残し、その残った何かが僕の優しさをかたちづくる。

僕の怒りは、誰かの心に何かを残し、その残った何かが僕の怒りをかたちづくる。

僕の過去の痛みは、今の僕に何かを残し、その残った何かが今の僕をかたちづくる。

こうした思考の実験は、ある物や人、「こと」に、輪郭線を描いたり、補助線をひいたり、矢印を書き込んだり、別の何かと線でつないだりするような、空想の行為だ。

(特に、矢印の魅力って言ったら!僕は矢印の魅力に数年来とりつかれてしまっている)

そして、それは、はじめは空想に過ぎないのだが、だが、その空想を「言葉」や「かたち」にすることで、それは、現実の「人の意識」および「人の行為」にも影響を及ぼしていく。

つまり、空想ではないのだ。

それは、すでにここに漠然と存在し、かたちとして見いだされることを待ちわびている、「いつか、ここにあるもの」なのだと思う。


エッセイ「いつか、ここにあるもの。」、季刊誌「住む。」で連載中。最新のエッセイは、「住む。」最新号でご覧ください。http://www.sumu.jp/ ※本エッセイは、「住む。」54号に掲載されたものです。