見出し画像

湯葉的な存在についての集合知。

僕は湯葉が好きだ。

湯葉的な存在でありたいとすら思っている。

・・・という書き出しでいこうと考えたが、そこから先、一向に筆が進まず、困ってしまった。

湯葉的な存在とは一体なんなんだ。分からない。

SNSでそうつぶやいたところ、「湯葉的な存在」について、なぜか、ありがたいことに、いろいろな方からたくさんのご意見をいただいた。そのご意見を紹介したい。

「上澄み」
確かに。でも、上澄みの人間ってちょっとやだなぁ。上澄みを、表面的な部分と捉えるか、純粋な部分と捉えるか、で解釈が変わってくるな。

「上質なタンパク質」
なるほど。

「何層にも重なって離れるような離れないような存在」
良く言えば、繊細。悪く言えば、もどかしい。

「エゴが少ない人。出汁の味を自らの内に取り入れて、その味に染まるけれど、しかし、湯葉の食感、滋味、栄養は保持されているので」
素敵だ。そんな人間でありたい。

「熱エネルギー(熱い思い)が加わって生まれるもの」
そういう見方もあるのか。

「生湯葉のしっとりした食感も素晴らしいし、乾燥湯葉の手軽さも良い」
生と乾燥、2面性を持つ存在ということか。

「主張が優しく軽やか」
湯葉には、名バイプレーヤー的な魅力があるな。

「膜的な境界線的な存在」
この視点は目から鱗。自分も、境界線的な存在になりたいとずっと思っていた。

「どうやって食べれば良いか迷うがその迷いこそが食の本質」
湯葉は、食べ方を人間に問いかけてきているのか。

「豆腐を作る過程から材料が発生し、正に捨てる部分が無いこと」
考えてみると、湯葉に、食べられない部分ってないな。

中には、こんな人もいた。

「古い記憶の扉が開きました。湯葉の話です。
おそらく14〜15年前の話です。
社内会議のアイスブレイクで、スタッフをお互い食べ物に例えて発表しようということになり、なぜか私は湯葉ということになりました。
カレーとか、焼肉とか、情熱やパワーを印象付けるような例えの食べ物が並ぶ中、私は湯葉。そこで湯葉と書いた人たちに、いろいろ聞いたのですが、実はあまり意味がなく、感覚的に湯葉という話でした。
でも、なにか理由はあるはず。
ぜひ、湯葉的な存在について解明してください」

深いな、湯葉。

湯葉を見つめることは、自分を見つめることなのかもしれない。



湯葉


豆乳をたっぷり入れた鍋を
ぐらぐらわかす

その鍋をのぞきこむと
僕の顔がうつっている

表面にできた
一枚の膜

僕の顔を写した
一枚の膜

僕はその膜をそっと引き上げ
どう食べようか
しばし迷う


あー、湯葉が食べたい。
ちなみに、日光では、湯波と書くそうです。
葉っぱなのか?波なのか?
疑問がつきないなあ。

エッセイ「いつか、ここにあるもの。」、季刊誌「住む。」で連載中。最新のエッセイは、「住む。」最新号でご覧ください。http://www.sumu.jp/ ※本エッセイは、「住む。」79号に掲載されたものです。