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目を背け続けて良いのか

目を背けてはいけないことがあると思う。誰にだってあるだろうけど、目を背けてはいけないことが目の前に来た時、逃げ出したくなることがある。それは、目を背けてきたからかもしれない。
あなただけのことを言っているわけでは無い、私は私に向かってもこの文章を書いている。

みんな知っていること

世界には、貧しく今日のご飯を我慢しなければいけない人々がいることを、日本人なら誰しもが知っている。世界には、学校など到底行けず、10歳から、非常に低い給料で働いている人がいることをみんな知っている。そして、世界には、ゴミの中からお金になるものを見つけないと生きていけない人たちがいることを、あなたも私も知っている。
言い訳をすれば、誰もそんなに余裕を持って生きている訳ではなく、 目の前にその問題が来なければ、そこに意識を回すことはできないのかもしれない。
けれども、それでも分かっているはずだ。目を背けてはいけない問題が、確かにそこにあるということを、分かっているはずだ。


3人の少年が見えるだろうか
彼らがとても小さく見えるほど、このゴミ山は大きい

道を歩いていく途中に突如として大きなクレーターのような穴が現れる。深さは10メートルを超え、広さは一目には分からない。ここに青く澄んだ綺麗な水が溜まれば、グランドキャニオンのように観光スポットになるかもしれないと思わせるほどの、自然の産物がそこにはある。ただ、青く澄んだ水も、押し寄せる観光客の姿も悠々と泳ぐ魚の姿も何もない。あるのは、大量に捨てられて死んだゴミと、それを拾う少年たちの姿、そしてゴミを漁るヤギの姿であった。
電線の通る街中で、ラジオやテレビで昼間の暑い時間をやり過ごす人々が都市部にいる一方で、そこから少し離れ、年の外れの方に行くとゴミを漁り、お金になりそうなものを探し出すのに必死な人々がいる。
これはどこか遠くの世界のことではない。この星の上で起きていることだ。大量にものを作り、大量にそれを消費する。使い捨てのような状態で、次から次に買っては捨てる。大量生産大量消費の世界を作ったのは、いったい誰なのか。ただ、それが誰であったとしても、自分がそれに従う必要は無い。
買うのを辞めたらいいんだ。直ぐに捨てるのを辞めたら良いんだ。物を大事にするって言うことは、貧しい暮らしをすることではない。原始時代に戻ることでもない。誰だってできることで、それは工夫することに他ならない。工夫するということは貧乏臭くなる事でもないし、物を買わないということは、お金が無いということでもない。

お父さんが買ってきた布で服を作り、残りの生地で鞄を作る。時間が経って服が破れ始めると、子供の服に形を変える。いよいよそれとしても使えなくなると、枕になり座布団になり、いずれタオルになり台拭きになり、小さな巾着になり、もはや名前もないようなものとなっても、まだ何かに使われる。物を大切にするとはそういうことだ。

いや、分かる。共働きが普通になって、時間に追われる社会の中にいて、そんなことが現実的にできるのかという反論が存在することは100も承知である。
ただ、そんな社会に生きているからと言って、自分の思う道を変えることが自分の中で許されることなのかということを、問い詰めて考えるべきだろう。世界を変えるために自分が行動するというより、世界によって自分自身を変えられないために行動するべきだと思うのだ。

大量生産大量消費社会

話を戻して、自然が作り出した壮大な地形の中にゴミを放棄する人々とそれを拾い集める少年たちに光を当てよう。前者は言わば私たちだ。大量生産と大量消費の社会に抗わずに、この先100年は地球が生きていると楽観視して、未来の子供たちのことや地球のことを気遣っているようで放棄している人々のことである。後者は、そんな私たちが捨てたゴミの中にまだまだ価値があることを見出すことができる大量生産大量消費の社会に抗っている人々だ。人が捨てたゴミの中にいて、そこから価値のあるものを拾い出そうとしている。

何か間違っていると思わないだろうか。なぜ、お金を持っている人が、モノの価値を分からなくなり、持っていない人がそれを分かるのか。持っているから分からないのだと、即答できるだろうが、みんな持っていなかった時代があるはずだろう。だから、考えないといけない。コンビニの袋が有料化されることやチェーン店のストローが紙になることに意味があるかどうかの議論をするよりも前に、モノの価値を見出すことがどれほど重要で、それがこの途方もなく大きな問題の根幹で、聞きなれた「意識を変える」ということが、何を言っているのかを考えないといけない。

彼らを見下ろしたくなかった

私よりも10メートルも下で、ゴミの中を裸足で歩きながら、ちょっとお金を持っている人たちが捨てたゴミを漁っている少年を見た時に、私はとても苦しみを感じた。
私よりも10メートルも下で、先進国と呼ばれる大量生産大量消費を正当化する国から送られては捨てられる古着やおもちゃの類いの山を歩く少年たちを見た時、目を背けてはいけないと思った。
私よりも10メートルも下で、モノの価値を分かっているように、間違えた人々がゴミと判断したものを、ゴミでないと判断する少年たちを見て、自分は前者な気がして見ていられなかった。
私よりも10メートルも下に彼らがいることが受け入れがたかった。目を背けたかった。彼らよりも、この星を汚しているであろう私が、なぜ彼らを見下ろせるだろうか。その物理的な立ち位置が、現実とは真反対な気がして、せめて彼らを見上げる場所に立っておきたいと思った。

かつて、国連の環境問題に関する会の中で、南米の小国、発展途上国と呼ばれるウルグアイのホセ・ムヒカ大統領が短いスピーチをしていた。メディアは彼を「世界で一番貧しい大統領」と表現していたが、貧しいの意味を履き違える多くの人々には彼のスピーチの内容は届いていないだろうし、彼の生き方も考え方も届いていないだろう。彼は、環境問題の会において、経済の話をした。その短いスピーチに全てが入っていた。けれど、彼のスピーチはもはや忘れられているだろう。その場で聞いていた各国の代表も、世界中で聞いていた既得権益にしがみつく人々も、企業や組織の顔たちも、もはや忘れているだろう。いや、彼らはきっと優秀だろうから、そのスピーチの本質的な内容や、自分たちが導いている社会の仕組みの間違えを指摘され、心に残ったかもしれないが、目を背け続けているのかもしれない。
ホセ・ムヒカ元大統領、今、この何も変わっていない社会を見て何を思うだろうか。彼が「原始時代に戻れと言っている訳ではない」と訴えた意味が今になってよく分かる気がする。

耳の痛い話だったかもしれない。私にとってもそうだった。そして、私は実際にこの写真の現場を見たからこそ、もっともっと痛いものだった。私はゴミ問題と貧困問題に取り組んでいるはずだが、それでも少年たちを見下ろせなかった。
私は理想を語りすぎているかもしれない。ただ、理想を求めることを止めるとき、私たちは大きなものを失うだろう。この社会を本当に諦めるのは、もう少し先にしたいと思う。まだまだ蒼くいたいと思う、グランドキャニオンの水のように。

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