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車窓より

ふわふわのアイマスクで塞がれた白い視界は天国みたいでそのまま死んだように12時間眠っていた。
目が覚めて起き上がると目眩がして、もう一度ベッドに倒れ込んだ。寝台列車の旅は初めてだったが昨日からの発熱で満身創痍だった私は感慨に浸るまでもなく席に着いた途端に眠り込んでしまったのだった。昨日とは一変して車内は時折声を顰めた会話と寝息聞こえるだけで、静寂の中をカーテンの隙間から漏れた光が走っていく。
車内は二段ベッドが向き合う形に並んでいて、狭い廊下を隔てて壁際にも二段ベッドが続いている。ここで3日間を過ごすのだ。プライバシーのかけらもないし決して快適とは言えない広さだが仕方ない。寝ていれば気にならない。


夜中に二つ離れた席から早口で何やら捲し立てる声が聞こえた。同僚の男だった。
「私は女性が大好きだ!夜には抱きしめてキスをしておやすみと言ってから寝る、それの何が悪いんだ、お前たちにはわからないかもしれないけど…」と男は続ける。いいからもう帰って、と呆れ果てた声で言う同僚の女性たちを無視して彼は続ける。汚い言葉が次々と出てくる。


やらなければいけないことも惰性で寝たきりだと何にもできなくなるからとりあえず体を起こして手を動かすべき、とカーテンの縞模様を眺めながら思った。やるべきことをし、一時間読書をした。


駅に停車し私たちは一度下車して空気を吸うことができた。夜8時なのに眩しく光る太陽に日がな一日引きこもっていた白い体を焼かれる。生気が戻るような気がして深呼吸をする。タバコの匂いが混じった冷たい空気が肺を冷やしてくれる。駅員の声で一斉に車内へ戻る。


朝9時、陽の光で目覚めて、吐き気で意識が遠のく。呼吸を整えても治らないのでふらふらとトイレへ向かった。人が並んでいたが吐き気があることを伝えると先に入らせてくれた。雪崩れ込むように銀色の宇宙的な便器に顔を突っ込んだ。昨日から何も食べていなかったから胃酸しか出なかった。生理的な涙も一緒に落ちた。鏡を見ると真っ青な顔に涙が一筋流れていて、清少納言が吐いてる女はいいみたいな話をしていたことを思い出した。公共交通機関のトイレの陰鬱さったらない。空気がこもってるしそこら中びしょびしょだし今にも落ちそうな蛍光灯の灯りが狭苦しい灰色の空間をより閉鎖的に見せている。
トイレから出ると先輩が待ち構えていて「大丈夫!?何があったの!?」と心配してくれた。こう書くといかにも優しげな印象だが実際は怒られていると錯覚するような語気で怒鳴られた。この先輩というのは厳しい人で仕事中に何度か怒鳴られたことがあるのだが、その時と同じ目をしていたのでこの人は真剣なんだなと思った。
それから先輩はインスタントのお粥とオレンジを二つくれた。窓際の席に座りゆっくりと紅茶を飲んだ。指が冷たく痺れていたがその強張りも少しずつ解けていった。窓の外には白樺の森が続いている。


また一眠りをして起きると別の先輩から「ミシマは知っているか」と問われた。金閣寺の、と言われたので「わかるしなんなら今持ってる」と言ってぼろぼろの金閣寺の文庫本を手渡す。留学時代に本棚からパクってきたもので表紙は破れているしページの端は丸まっている。右開きで縦読みの日本の本が面白いようで素敵だと何度も言ってくれた。もっと丁寧に物を扱っておけばよかったと恥ずかしくなった。彼女はよく本を読むようで他にもコウボウアベは知っているかとかハルキはとか聞かれた。この国で人気な日本の作家というとこの3人なのだ。太宰や芥川や漱石の翻訳を私は見たことがない。田舎の小さな本屋だからというのはあるだろうけど。最近の作家だと宇佐見りんの推し、燃ゆ。だとか村田沙耶香のコンビニ人間は売られていた。


夜、昨日の同僚の男が暴れた。右斜め前の席で妻の名前を叫びながら暴れていた。上司がほかの男性を呼んで同僚の男は取り押さえられた。啜り泣いて出て行って、誰かを探しながらトイレの方へ向かって、誰かと取っ組み合って、また静まった。3人の警備員がやってきてまた去った。


夜の列車に揺られていると急に心細くなる。この一年全く感じたことのなかった郷愁を今この列車の中で感じている。家に帰りたかった。山並みが地元のそれに似ていた。黒い森を背後に街灯はちらちらと光っていた。


目的地に着き荷物を下ろした。空は高く晴れていてサングラスを持ってこなかったことを後悔した。


この町での仕事を全て終えた夜、飲みに来ないかと誘われたので荷造りの手を止めて同僚の部屋へと向かった。手ぶらでは申し訳ないと思い韓国海苔を一袋持って行った。同僚たちは一つ二つ恐る恐る食べてご飯と一緒に食べた方がいいとか海産物は嫌いだとか好き勝手言って結果半分以上が残った。桜色のジンをスプライトで割った。何の話をしたかよく覚えていないが、人が一人二人と増えていき最終的には九人ほどで飲んでいたと思う。「難しい質問だけど」と前置きされて原爆について聞かれた。原爆を落とされたのにアメリカの友好国なのは何故なんだ、とか。

深夜3時「もう眠たい」といって酩酊した体を引きずって部屋へ戻った。同室の女は膝を立てて寝ていた。

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