「感謝」と「申し訳なさ」についての文化間差異
Hola!
ひとつ前の記事で風邪ぎみと書きましたが、その後、大人になってからでは珍しいレベルにこじらせてしまい、
結膜炎(目真っ赤)→中耳炎(激痛)→気管支炎(咳とまらず眠れない)→副鼻腔炎もなりかけかも、と、発熱以外フルコンボしました。My免疫細胞、がんばってくれ
さて、これまでブエノスアイレス生活お役立ち記事を書いてきましたが、今回はちょっと毛色の違う投稿です。
異なる文化圏で暮らしていると、日本で育つ中で形成された自分の常識だったり価値観だったりというものに改めて気づかされる機会が多くあります。
私はおそらく他人から見て「ザ・日本人!!!!」というタイプではないのですが、やはり日本人的な規範や常識は骨の髄までしみ込んでいる、というかそれでもって自分という人間は形作られているなと思ったりします。
特に育った文化における規範は、自分にとって負担になっているものでも、今違う文化圏にいるんだからそれに合わせて振舞わなくてもいいんだよ、と頭で分かっていても、往々にして自分の中で無効化することが困難だったりするのです。
そうした強力な日本的規範・価値観の一つが、
「他人に迷惑をかけてはいけない」
です。
…いえ、もちろん、他人に迷惑をかける行為がダメというの自体は世界共通です。
しかし日本におけるこの強迫観念的とも言える価値観は、時に「実際は別に迷惑ではないのに様式として遠慮すべきとされているから慎まなければならい」「お互い様の精神の頼り合いや正当な理由で助けを求めることさえも忌避される」といった事態や、それから外れる行動を取る人に対する極端な非寛容性を生み、人間関係の輪の中の幸福やconfortabilityの総量を減じている側面があるように思います。
(ちなみに、これと双璧をなすもう一つの日本に根強いかつ欧米に無い価値観が「苦労・我慢・自己犠牲を美徳とする」です。この2つの価値観は非常に相性が良く、双方が合わさって伝統的日本社会が回っているように思います。)
もちろんこの文化・価値観が社会の維持に与える良い影響もありますし、その是非はさておき
アルゼンチンに住んでいて最近感じるのが、日本人の自分は周りよりもおそらく日常生活でめちゃくちゃ「申し訳なく」思っているなということです。
先日、風邪を引いて2週間たったころから治るどころか咳が日を追ってひどくなりこれはまずいと思った私は長期出張先の小さな町で病院にかかりました。地元のベテラン社員の方がいくつかの医者にコンタクトを取り、予約なし診療が可能なところに仕事終わりに連れて行ってくれたのですが、その時点で私はかなり恐縮に思っていました。
しかし予約がないため診察までにも待ち時間があり、さらには薬をもらう段階で処方箋の日付が間違っていたために貰いなおしなどのトラブルがもあってかなり長引いてしまったので私は非常に申し訳なく思い、待っている時に「もうここから1人でも大丈夫ですよ」と言ったり「何か後に予定なかったですか、時間をとらせて本当にすみません」というようなことを言ったりしました。ところがなぜかそれがイマイチ伝わらず噛み合いませんでした。
確かにこういった状況で1人で大丈夫と言ったところで「OK、ほなあとはよろしく」と不慣れな外国人(私は言葉もわかるので実際大丈夫ではあるのですが) を放って帰ったりすることはまあないですが 、なんというか、半ばそういう言い方での相手に自分のために時間をとらせた申し訳なさの表現は日本では非常に普通で、それに対して「いえ、気にしないでください、全然大丈夫ですよ」という返しをするのが当たり前になっています。
しかし、この時、相手に私が何に対して謝っているのかいまいちぱっと伝わらず、私は日本文化とアルゼンチン文化でのコミュニケーションの違いを実感しました。
(因みに病院に連れて行ってくれたこの方は別の日に200kmほど離れた町に行った際、仕事終わりに帰り道にある特に用事はない知り合いの家に私を連れて寄り、帰ったら22時を過ぎるような時間にもかかわらず長々とお茶しながらお喋りしていたので、迷惑云々以前に時間の流れも違うようです笑)
病院でのやりとりで私は、赴任当初2か月間通っていた語学学校での会話を思い出しました。
クラス後学校の庭で開かれたアサード(アルゼンチン式BBQ)で先生が私のためにコップをわざわざ取ってきてくれた時か何かだったと思うのですが、
「Perdon (すみません), gracias (ありがとう)」
と私が言って、先生に笑われたことがありました。
「PerdonとGracias一緒に使うの、なんかおかしい!」と。
なんと。そうなのか。私は面食らいました。
日本では「すみません、ありがとうございます」というのはほぼセットみたいなものじゃないですか。
日本語におけるその概念の説明を試みつつ、じゃあスペイン語ではそういう時なんて言うのかと聞いたのですが、先生曰く、「感謝しつつ謝るってどんな状況よ???そんなことなくない??」とのこと。
それで気づいたのですが、おそらくスペイン語文化では、感謝は感謝であり、そこに相手の手を煩わせたことに対する申し訳なさや自分の至らなさを恥じる気持ちは含まれないのです。
(実際にはその後、PerdonとGraciasを一緒に使っている場面に出くわしたこともありますしもちろん状況次第ですが、一般的にということです。
自分に落ち度がある事象を相手がカバーしてくれた場合には、PerdonとGraciasは同時に存在すると思います。)
余談?ですが日本のこの「申し訳ない」は殊更に、年齢が上の人に対して発動します。
例えば、車に乗っていて喉が渇いたなーと思ったときに、運転しているのが後輩であれば「ちょっと次のサービスエリアで止めてくれへん?」と気軽に言うけれども、先輩だった場合、相手が言い出すか乾きが限界近くに達するまで黙っている、というようなこと、あるんじゃないでしょうか。私はあります。
あるいは、お腹空いたなーと思っているときに後から合流する人に「何か要るものあればスーパー寄って行きましょうか」と言われた場合、それが後輩だったら喜んでおにぎりとパンと….と頼むところ、先輩であれば「いえ、特に、大丈夫です」と言ってしまうとか。
「申し訳ない」というか、「我慢可能な自分の欲求のために年上(=目上)の人の手を煩わせるのは非常識」という概念でしょうね。
おそらくこの感覚、アルゼンチン含む欧米社会では希薄なので、変に我慢してしまわずスッと言えたほうが得だなと思います。
実際、サービスエリアに寄るのもスーパーに寄るのも別に大した迷惑ではないわけなので….。
私は、しばしば「寛容だ」と言われます。
他人に日本的価値観でいう非常識なことをされても、図々しいことをされても、それが自分にとって直接的にすごい被害を与える或いは自分の尊厳に関わることでない限り、基本的に全然イラッとしないので。
(因みに、人間心理はそう単純ではないので、例外もあります。お前あの時理不尽にイラついてたやろ!と思われた知り合いの方、そんな時も確かにあります。すみません。笑)
その一方で、「これは(自分的には全然OKだけど)非常識と思われるのではないか」「本当はこうしたいけど図々しいと思われないためにはこうすべきなのではないか」のような相手に迷惑をかけないことをベースとした空気読み・我慢の癖は染み付いていて、たとえ自分が、そういった挙動が評価されない文化圏にいたとしてもそれを打ち破るにはかなりの躊躇いが生じます。しんどいですね。
…と書きましたが、自分では周りに合わせて過剰なまでに気を使っているつもりであるものの、職場では「よくあの先輩にそれ頼めたね?!」的な驚かれ方をしたことが一度ならずあるので、日本社会基準でいうとまだまだ足りないのかもしれません。