去年の秋、先輩の卒制に出演した

わたしはいまゼミの友達とガストにいて、卒制どしよなど話している。秋学期には先生との面談がある。去年のことを思い出すと、わたしは橋村あいさんという先輩の卒業制作に出演/脚本協力し、そのタイミングがわたし的にばっちしだったため、なにか思うところがありいろいろ書いた記憶があった。noteの下書きに見つけたので、載せます。わたし、あの時二年生だったからゼミ生でもないのに四年の先輩の卒制に出られて誇らしかった。いまはわたしは一応後輩ができ、出会った時の橋村さんの年になるので、なんか意識して先輩しぐさをしてしまう。そのとき、やっぱり卒制期間の橋村さんをエミュレートしてるなあとなる、橋村さんは偉大です。

個人的な感傷をもっと書いていきたいなってずっっと思っていて、まあ頭に文字が溜まるからなんだけど、でも自分の好きな人達のステキをわかりやすく紹介という形で外に見せる文章にするには労力がかかるわたしだから、どんどん消えちゃう気がして、書く、思想より文字ははやいので、本番後の深夜に書きます。

卒業制作ってあらためてすごいですよね、四年間演劇を大学で勉強してきた人が、もう一旦おしまいですという意味で作るものだから 演劇に帰ってくるかはわからなくて、それがあたりまえって後輩から見るとさみしいし怖いし泣いちゃうくらいなんで!だけど、人生だし だからもうおもしろいもの作ろうとかそういう次元じゃない気がして、もう何を作ればいいんですかと、時間とか生活とか自分の変化した部分と向きあうしかなく、物語と言うか絞り出して抽出しなきゃいけない気がします。気迫、とかでもないですよね。あくまでゆっくりこまかく繊細に!だって毎日は手作りで、あの日目の前に居て出会って話したあの子との繋がりってそんな包丁の入りが思い切り良く無く、いつ思い出しても泣きそうな気がしますもん。そしてみんな職業女優ではなく(ほんの数人居るが、)演劇を専攻してない人もいて、DANCEをしている人もして、みんなで集う。まず集められたということに大きな意味がありすぎて、みんな誘ってもらった時点でなんか、わたしは橋村さんの毎日だったんだってなりますから、橋村さんが毎日を手縫いしてきた軌跡を上演するって確信してますから、それだけでふわふわし、役に入り込む以上のその劇への重ね合いが起こるんですね。自分の生活の重ね合い
その人の卒業制作って人生で一回しかなくて、なんか、四年間をじっくり見直して丁寧に丁寧に縫い目を手でなぞって作った上演だったんじゃないかって思って、それだけで価値ありませんか?ないし、そんな自分の人生死ぬほど見つめてそれを表現にしてまとめ上げるなんてこと んで、それを鑑賞するってやっぱり相当のエネルギー使う 良いエネルギーの使い方
よくわかんないけど、橋村さんは自分がどうやってどうにかしてきたか、その過程で潰れてきた自分と他者について尋常じゃない向き合い方をしていて、なのに正気で、怖い(すごい褒めている)狂いの方向性が独特すぎる!そんなこと、普通にやってたら死んでる 3日で死んでる よく橋村さんは電車の中の本当の狂いと紙一重だと言うけど、わたしは偶然一緒のタイミングで狂えるんじゃないかなあと勝手に思っている 
この世って、すべてを克明にするためならなにもかも燃やし尽くしてしまって大丈夫なんだけど、なんだけど、迷いの部分も愛したい時もあるしそれがだれかの克明だったりして、だからずっと煩悶、楽もしたい、その時のうまくやろうという意思だけで精一杯のわたしたちがいる!だからその燃えカスの部分にも橋村さんが居て、ほんとこういうの嫌だよね~飲みに行こうよ と、こっちがどんなにそれで心がじゅわっとなってるかも知らずに、しれっとした顔で全員に言ってるんじゃないかあ? それが死後、天国と地獄の間にいてくれたらありがたいなって思う だけれどどうしてもたどり着けないくらい鮮明で、なんかね、ときたま生きたくなっちゃうくらい鮮明で困ります!好きです!  人の精一杯とかやりたい、上手に、できたい、の意思とか願いとかを拾い上げることってマジで愛そのものですよー 根底にしっかりとした愛がある人 幻ではなく! あいさんですし! 愛ってもう創作で披露して啓蒙していかなきゃ、たぶんみんな気付かないし~ もっと書いてほしいと思います…… それがこんな伝わりやすくわかりやすく演劇にできるのって本当に才能すぎる 橋村さんの感じる愛おしさって、そのまま含み無く言葉通りに愛でしかないから、そのことにみんな救われてるんじゃないですかねー……

場転のタイトルイン、鈴木志郎康『日没の印象』みたいで好きです
橋村さんはなんだか80年代の詩人みたいな赤茶色のフイルムのような趣がある


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