なぜ他人を尊重する必要があるのか~比較優位の視点から~

最近、他人にリスペクトがない人が多すぎるような気がします。例えばTwitterでは「こんなことも知らないの?」「あんなこともできないの?」といった、いわゆる”レスバ”が絶えないですし、うちの大学でも周りを見下すような人達が一定数います。

今回はこれについて、経済学の概念の1つである「比較優位」と結びつけて考えていきます。


比較優位とは貿易に関する理論の1つです。デヴィッド・リカードという19世紀の経済学者が提唱したものですが、未だに貿易の効果を説明される時には毎回使われる、まさに不朽の概念です。

そんな比較優位ですが、具体的にどんな考え方なのか、図と合わせて見てみましょう。

・A国、B国共に200人ずつ国民がいる
・100人ずつリンゴとミカンの両方に割り振れば、A国は100キロのリンゴと50キロのミカン、B国では90キロのリンゴと30キロのミカンを作ることができる

さて、この場合A国はリンゴもミカンもB国よりたくさん作れますが(絶対優位)、人はそのままでより多く作る方法はないでしょうか?

ここで、A国は20人でリンゴを、180人でミカンを作らせ、B国は全員にリンゴを作らせたとしましょう。そうすると合計200キロのリンゴと90キロのミカンを作ることができます。最初の時は190キロのリンゴと80キロのミカンしか作れなかったため、同じ労働力で生産量を増やせていることがわかります。このような考え方を比較優位と言います。


要するに比較優位は「絶対的な能力の優劣にかかわらず、すべての人(国)に優れている分野がある」ということを強調しています。

これを日常に置き換えて考えてみましょう。仮に組織の中で圧倒的に優秀な人がいたとしても、その人があらゆる仕事を受け持ったら1つに費やす時間が減ることで全体の利益が落ちてしまいます。つまり、全員が全体の利益に貢献できるため、すべての人は優れていると言えるのです。「全ての人がその人にしか果たせない役割がある」まさにこれが他人を尊重するべき理由ではないでしょうか。

また、あるグループでは絶対優位であっても、全てのグループでそのポジションにいる人なんて滅多にいないはずです。例えば高校の部活動は、市の大会で勝ち上がった人は県大会に出場し、最後まで勝ちあがった人は全国大会に出場します。つまり負けるまで戦わないといけないのです。このように、殆どの人はどこかで自分よりすごい、すなわち絶対優位な他人を経験しています。なので、そこそこ優秀な人がお世辞にも頭がいいとは言えないうちの大学に入り、周りを貶す気持ちは理解できます。でも社会に出て自分より優秀な人と出会ったら、その時の言動はきっと自分の首を絞めることになってしまうと思います。


少し話がズレましたが、最後に極端な例として金子みすずの『私と小鳥と鈴と』を見てましょう。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい

すごくいじわるに要約すると「鳥より私の方が足が速い」「鈴より私の方が歌を知ってる」と歌っており、まるでひろゆきが言っていそうな感じがしますが、比較優位の考え方を使えばこの詩は以下のように解釈できそうです。

「”生”という市場において、全ての生物に比較優位性がある」

これは流石に極端過ぎるものの、重要なのは市場をどこに設定するか、つまり対象範囲をどこまで広げるかでその人の絶対優位性なんて簡単に崩れてしまい、その意味で絶対優位性は非常に脆いものだということです。一方、市場がどこまで広がっても比較優位性は絶対に存在します。

このように、どんな環境であっても自分の貢献の仕方があると考えると、ちょっとだけ生きやすくなるかもしれませんね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?