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【関口威人の災害取材ノート】3.11 あの日の思いとあのときの動き

(※ 本記事は2023年3月11日のニュースレター配信記事のnote版です)


東日本大震災から12年となりました。犠牲になった2万人以上の方々の冥福を心よりお祈りいたします。その上で南海トラフ地震など「次の震災」への備えを進めていくためにも、あのときの僕の動きと思いを振り返っておきたいと思います。

名古屋市の鶴舞公園で開かれた東日本大震災犠牲者追悼式の様子(2023年3月11日、筆者撮影)

NPOスタッフとして現地へ

 2011年当時、僕はフリー3年目で、災害救援のNPO「レスキューストックヤード」の非常勤スタッフも兼ねていました。3・11の当日は名古屋市内でフリーの仕事の打ち合わせをしていたところ、ゆっさゆっさと船に乗っているような揺れを感じました。

 慌てて携帯(当時はまだガラケーとiPod touchとモバイルWiFiの組み合わせ)を見ると、M9・震源は東北沖。「これはやばい」と直感して、打ち合わせは切り上げさせてもらい、すぐレスキューの事務所に向かいました。

 普段は講演などに飛び回っている代表理事の栗田暢之さんがたまたまこの日は名古屋にいて、スタッフ数人と情報収集。僕も加わり、東北の地図を拡大印刷して壁に張り、テレビで流れてくる情報を地図上に書き込みました。

 大きな余震も続いて、張り付ける地図はどんどん広がっていき、テレビには白い波を立てて海岸を襲う津波の映像が。「みんな逃げてくれ」と祈るように見つめていたこと、「これはもう数年がかりの支援になる」とつぶやいていた栗田さんの言葉などがまざまざと脳裏によみがえります。


 栗田さんは全国の災害関連団体と連絡を取り始めますが、どこも情報は手探りでかき集めている様子。現地の状況把握や連絡調整のため、名古屋からも東北へ人を派遣するのは不可欠でした。

 しかし、スタッフはいつもギリギリで活動しています。しかも今回は津波の被災地で何が起こるか分かりません。「関口さんしか現地に行ってもらえる人はいないよ」。そう栗田さんから声を掛けられ、僕も覚悟を決めました。

 ただ、個人的に翌12日の午前中にどうしてもこなしておきたい用件があったため、移動は12日午後からにさせてもらいました。

名古屋から空路で山形入り

 でも、この状況で名古屋からどうやって東北に入ったらいいのか。僕は母親が岩手(大谷翔平選手と同じ奥州市)出身で、小さい頃は岩手に何度も行きましたが、東北全体となると土地勘はありません。栗田さんはもともとつながりのあった山形のNPO法人代表・千川原公彦さんらと連絡を取り合い、東北でも比較的被害の少ない山形に飛行機で飛び、そこから陸路で宮城の沿岸部などに入る移動経路を考えてくれました。

 そこで僕は12日午後、まず関西の伊丹空港へ。山形空港に飛ぶ便がそもそも名古屋になかったからですが、山形空港も停電していて全便の欠航が続いていました。その再開を待つしかないと、伊丹空港近くのホテルに一泊して翌13日、朝一番に空港に行くと、山形便が再開するとのアナウンスが。その場でチケットを購入して、再開第一便に搭乗できました。

 その頃には福島第一原発1号機も爆発していました。大変なショックと不安も感じましたが、当時は逆に日本海側からアプローチするのでまだ大丈夫だろうと、自分にも家族にも言い聞かせていた覚えがあります。

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