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【関口威人の災害取材ノート】「マスゴミ」視・デマ広がる被災地で…熊本地震から学んだこと

(※ 本記事は2023年4月15日のニュースレター配信記事のnote版です)


2度の「震度7」で熊本県を中心に被害をもたらした熊本地震から7年が経ちました。
 地震と関連死で亡くなった方々は276人に上り、今も災害公営住宅で孤独死が発生しているとされ、心が痛みます。

 発生直後の現場では「マスゴミ」の言葉が表す取材者に対する厳しい目線があった一方、情報不足から住民が募らせるストレスやデマの広がりもあり、伝えることの難しさを強く実感する災害でもありました。

 名古屋から取材に入った僕自身の経験と川柳カメラマンの写真を交えて、その教訓をまとめたいと思います。

2度の「震度7」によって多くの建物が倒壊した益城町の市街地(2016年4月20日、川柳まさ裕撮影)

名古屋から熊本空港への再開第一便に搭乗

 熊本地震は2016年4月14日夜に最初の震度7が、2日後の16日未明に2度目の震度7の揺れが発生しました。

 僕は当時、東日本大震災のときの災害救援NPOからスタッフとしては離れており、まっさらのフリーの状態。ただ、別の「震災リゲイン」という震災復興情報のNPOに理事やライターとして関わっていて、その代表の相澤久美さんが熊本や福岡の人たちとつながりを多く持っていて情報交換ができました。
 そしてありがたいことに、その法人から交通費や滞在費などの資金的支援も得られる見通しになり、現地入りを探り始めます。

 また、川柳カメラマンも現地に入るつもりだと聞き、一緒に行動することを前提に計画を立てていきました。

 とはいえ僕自身の身分は、ほぼほぼ一般人。何のために行くのか、何ができるのかを自問しながら準備を進めました。

 現地へは車や新幹線などでの移動も考えましたが、名古屋からではかなり時間がかかりそう。一方で震源地の益城町には空港(熊本空港=阿蘇くまもと空港)があり、名古屋(中部国際空港=セントレア)からも直行便があります。

 熊本空港は地震の影響でいったん閉鎖されていましたが、僕は東日本の経験から、いずれ再開されるだろうと思って待ちました。結局、19日午後の再開第一便の航空券を押さえられ、川柳さんとセントレアで合流して乗り込みました。

2016年4月19日から22日にかけての関口と川柳カメラマンの動き。益城町を中心に東西南北を回りました


 機内には10人ほどの乗客しかおらず、よほどの事情がある人たちばかりなのだろうと感じられました。そんな中で登山ジャケットを着込んだり、一眼レフカメラをいじっていたりする僕と川柳さんを見て、キャビンアテンダントさんが「被災地に行かれるんですか?」と声を掛けてきました。

 僕らは取材に行くつもりなんですと答えると、CAさんは「熊本の人たちが心配で、もし何かの役に立てば」と言って、機内にあった飴やティッシュなどを包んで渡してくれました。袋には「一日も早く安心してゆっくり過ごせる日が来ることを心よりお祈り致します。 2016.4.19 NH333 クルー」という手書きのメッセージもありました。

熊本空港行きの機内でキャビンアテンダントから託された物資。袋には手書きのメッセージもあった(2016年4月20日、川柳まさ裕撮影)

 
実は、僕も出発前に物資を買い込んで、スーツケースいっぱいに詰めていました。東日本のときに、僕自身が欲しいと思ったボディシートやドライシャンプー、携帯トイレなどです。費用の一部は、なメ研メンバーからの寄付も充てさせてもらいました。

 被災地で個人の物資をパラパラと配るとあまり良くないのは支援の鉄則だと知っていましたが、今回は何かしら持っていきたいという思いが強く、実際CAさんから託されたものも含めて後で役に立ちました。それが必ずしも正解とは言えないのですが、記録として残しておきます。

名古屋で買い込んで熊本行きのスーツケースに詰めていったもの。東日本のときに体や頭を洗えなくて困った経験から選んだ(2016年4月18日、関口撮影)

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