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信長は信康処刑を命じていない

徳川家康については江戸時代にできあがった「神君バイアス」と明治維新の「狸親父バイアス」、対象から昭和まで続いた「唯物史観バイアス」の3つがからみあってやっかいな蜘蛛の巣を作ってきた。

唯物史観バイアスは別においておくが、どんな政権も前政権を悪者にして自己の正統性を主張したがる。それに忖度したのが狸親父バイアス。家康が関ケ原前後から夏の陣まで延々豊臣家の滅亡を狙って画策していたとするのなどがこれ。逆に家康を勧善懲悪の化身のように美化し、都合の悪い話は隠そうとするのが「神君バイアス」。

最近になって神君バイアスが薄れてきたのが築山殿・松平信康処刑事件。信康の妻(ごとく姫)は信長の娘で夫の横暴を信長に書き送った。これに対して家康は腹心ナンバーワンの酒井忠次を使者としたが、忠次は信長の質問に弁明せず、「すべてそのとおり」と答えた。

信長は「では仕方ない。家康の思うままにせい」と言ったとされる。つまり信長は処刑を命じたのではない。これは信長公記など同時代資料に見えるので信頼性が高い。

酒井忠次はその後譴責された様子はない。晩年要職につかなかったのは眼病によりほとんど失明状態だったことが大きい。忠次は従四位下・左衛門督に叙位任官されるなど徳川家の重鎮として過ごしている。

神君バイアスを外せば家康は信康処刑の意思を固めており、ごとく姫の書状を機に信長にその承認を求めたと読める。これに先立って信康・築山殿の岡崎では深刻な問題が多数起きていた。

ちなみに築山殿の死因は自殺だったとする説がある。家康からすれば信康を処刑すれば築山殿まで殺す必要はなかったはず。自殺だった可能性はかなりある。

Wikipediaの松平信康の項、「父子不仲説」以下に詳しい。


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