使い方すら忘れていた。 ゆとうさんの記事を読もうと久しぶりに開いたわけですが、ゆとうさんも野球にぞっこんのようで、元気そうで何よりです。
毎年年末に差し掛かると大体海外案件。 しゃーないです。
と、考えるとばい。 イスラエルのキブツ(開拓農場)とか映画では稀にみる描写やと思ってしまうのはおかしいのだろうか?
資本主義社会じゃまずもって集団農場なんて形成されることなんてほぼないよね。 社会主義国ではコルホーズ、ソフホーズや人民公社なんてもんがあるが。 そう考えてみると資本主義は集団開拓農場を既存の農地ではなくフロンティアで形成しているのが当たり前だのクラッカー。
イスラエルのキブツとかなかなか描かんやろ、だから貴重やと思うんだが
第三次中東戦争、六日間戦争時を描いた「熱砂に抱かれて」を観たいと思っているが、なかなかでてこんな... ソフィーマルソーが一番たまらん時期の映画やぞ。
ミイラ取りがミイラになる、というのは言い得て妙。 まぁ、物質的なものに例えたら麻薬みたいなものですよね。まさに【禁じられた遊び】
自己肯定と自己否定を同時に行う無間地獄に陥るというのは意外に身近にあるもんでして。 その地獄に酔いしれる人の多くは遅からず崩壊、破綻していきますよね。 「苦肉の策」「目には目を」というものの本質を理解せず、効果にだけ魅入られた結果。
その「蜜の味」をまた味わう為に大義名分を巧くお膳立てし、理不尽な「目には目を」作戦を敢行する。
「目には目を」で用いたはずの限定的な手法に「蜜の味」を覚えて、かつての自分を否定するかのような行為を繰り返すようになる人間が多々いますよね。
なぜかしらその禁忌である「苦肉の策」を、その対象として当てはまらない存在に対して安易に用いるようになります。
しかし、諍い自体に意味や意義を見出せなかった人間達の多くは、その忌むべき存在であるはずだった、もしくはその方策や手法自体に対して憤りをもって相対したはずであるのに...
まさに苦肉の策で放ったこれは「目には目を」という大義名分としては成立するわけですが。 大抵の人はこの「苦肉の策」を忌むべき手法であると理解した上でカウンターとしての限定解除で行うわけです。
そこで次の自軍ターンとして、幾つかの選択肢がでてくると思いますが、「一つ」の選択として、その忌むべき相手の手法を苦肉の策として放ったとします。
例えば一つの諍いがあったとします。その諍いの中で相手が自分にとって大変効果的かつ、唾棄や禁忌すべきことを手法として用いて攻撃してきたとします。
極端な話が出ないって、実は「問題」としているものを実際「問題」にしていないからなんですよね。