他責、ネガティヴとその本質
前記事に引き続き
他責やネガについて考えてみます
と、その前に
自責とポジの究極はというと
単純に
孤独への耐性が半端ないのではないか
というのが私の見解です
すべてにおいて自己責任だという認識は
他の介入を必要としません
ある状況が生まれたのには
自身の全ての選択の末に成り立っている
例えば
出先で大雨に降られたとしましょう
そこに行こうと思ったのは
自分の意思
そして仮に予報とは違えど
天気はそもそも変わるもの
降るも降られるもすべて運
誰も責められやしません
・この考えを踏まえた上で
他責やネガの本質には
他の介入を認めること
転じて
他との共存を望む、という行為
そのものなのではないか
と思います
他者や環境のせいにする
改め、せいにできる
責任逃れのための道を確保
少し言い方が悪いですが
要は楽をしたい
しかし、
すべてを自身でこなすということは
実は効率が悪かったり
生産性が上がらなかったり
当然良いことばかりではありません
ストレスの原因に成りうる他の存在は
ストレスの解消の要因にもなります
失うものもあれば、
当然得られるものもあるということ
ともあれ、いわゆる
自分軸の確立あってこその
社会での
共生という正しい(?)落とし所に
収まっていくのではないでしょうか
自責、ポジへのベクトルも
行き過ぎれば
それもまた諸刃の剣になる
一周回って
他責、ネガを求める
追い込む、または負荷をかける
これらの行為は
必ずしも悪しとはならず
成長という対価を得たいのであれば
これまた必然であるように思います
・逆に
常に全体の2割程度と意識しておければ
過剰な没入も防げるのではないでしょうか
定数でなく
変数がいかに多いかということ
だからこその2割
とても妥当なのではないでしょうか
最後まで
お読みいただきありがとうございます
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