教えるということ

まず初めに、タイトルを見て、素晴らしい内容が書いてあるのではないかと期待してしまった人に、忠告しておく。はっきり言うと、この記事にはあなたのためになることは一切書いていない。人への教え方のノウハウ...とか、そういう記事を求めているのであれば、すぐさまブラウザバックすることをお勧めする。

それでは、本題に入ろう。分からないことを教えるということに違和感を感じたという話である。文面だけ見ると、いや良いことじゃないか!と思うかもしれない。実際いいことなのかもしれない。その辺が、私の中でわからなくなったので、文章化して整理しようと、そういうnoteである、これは。

学生のときから感じていた違和感だ。分からない事柄を分かる人から教わる。この構図自体は素晴らしいものであると思う。本心からそう思う。実際、私自身、人に教えたことも、教わったことも当たり前ながら、ある。私が違和感を感じるのは、聞いてもいないことを教えることについてである。これについてが分からない。私が優しくないだけなのかもしれないが、聞いてもいないことを必要以上に教えるということは、おせっかいなのではないかと感じてしまう。私は学ぶということは、本人が能動的でないと、できないと思う。度合いにもよるが、受動的でも、勉強はできる。言われたことを理解し、応用できるようになるということが「学んだ」ということだと思う。ある程度のことであれば、言われた単純作業すらできなければ、それは人間ではない。

先日、職場の研修の課題が終わらず、残業し、取り組んでいる同僚がいた。私は経験がある内容であったため、そこまで苦労を感じることなく課題を完了することができたが、経験がなく、慣れていない人にとっては大変厳しい課題であったのではないかと記憶している。案の定というべきなのか、私の中ではおせっかいであると感じてしまう「教える」行為を行っている同僚がいた。予め言っておくと、私はその同僚が大変気のいいやつであることを知っているし、何度か飲みに行く程度には仲がいい。そいつのことは、人間としては大変好みではあるが、その時の行為には違和感を感じざるを得なかった。どういった違和感だよと尋ねられると、文章化することは難しいが。
学生の頃は、特にそこまで気にしなかったはずだ。「そこまで教えなきゃダメなのか」とか、「もう答えを言っているようなものではないか」みたいな ”必要以上の” 教えを見ても、「まぁそんなもんか」で終わっていたと思う。なぜこんなにも気になるようになったのか。全く、けつの穴の小さい大人になったものである。

ここまで読んでいただくと、
じゃあ、お前は人に何か尋ねられても、教えないんだな!
という風に思われてしまうかもしれないが、そういうことではない。どちらかというと私は懇切丁寧に教えすぎて、それこそ、必要以上のことを教えようとしてしまう人間であると思う。おそらく、私は、私自身の教えすぎてしまう性格に辟易しているのだと思う。だから、私は基本的に尋ねられなければ答えないように意識しているし、可能な限り直接答えを言うのではなく、ヒントとなるようなことを伝えるようにしている。

教えている人間に残業代が出ていることが納得できないのか、人の学びの機会が失われていることが口惜しいのか、はたまた、自己嫌悪の押し付けなのか、この文章を書いている今も本当のところはわからない。文章化すれば整理できるかと思ったが、どうやらそんなことはないようである。当たり前だし、分かっていたことであるが。なんというか、考えがまとまっていないままnoteを投稿することに大変な抵抗感があるのだが、まぁ、日記はそういうところに味があるんだろう。知らんけど。さらに言えば、日記タグを付けつつ、ほぼ月一投稿である。気にしないで日記タグ付けるけど。今回はいつか読み直して、書き直してくれることを祈って投稿するとしよう。たぶん読み直すことすらないんだろうけど。

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