あなたは貝になりたいのか。私は蟻になりたい。

貝になりたい気持ちもわかる

2008年に「私は貝になりたい」という映画が放映された。当時、私は「私は貝になりたい」というフレーズを気に入って多用していた。クソガキであったため、映画の内容について全く知らず、興味もなかったくせに。
映画を見たわけではないが、あらすじを見てみると案外壮絶な話である。この映画の主人公は理不尽な裁判結果に絶望し、「私は貝になりたい」と遺書を残し、処刑される。人間という生き物への諦観からの「貝になりたい」である。えげつない。
しかし、誰しも程度は違えど、 "人間" への嫌気が差したことはあるのではないだろうか。生きてゆくために他の人間と関わることが必要であることは "言わずもがな" ではあるが、場合によっては関わりあいたくないことだってある。
「貝になりた」い気持ちもわからんでもない。

我儘な貝

いつ頃からかは記憶していないが、ある時からだんだん「貝」では我慢できなくなってきた。
「貝」は孤独である。ほぼ完全なスタンドアローンな状態である。私が求めていることはそれではないのだ。面倒な責任感や考えなければならないことから逃げたいだけなのだ。非常に我儘である。しかし、そうなると社会から完全に隔絶される必要はない。
ベストなのは、ある程度社会との隔絶性を保ちつつ、人に必要とはされることである。
そこで蟻が出てくる。自分で言っておいて、意味がわからんが。

私は蟻になりたい

予め言っておくと社畜になりたいわけではない。
働き蟻は餌を巣に持ち帰ることが仕事である(他にもあるのかもしれないが知らん)。その過程において責任も考え事も存在していないように見える。ただ愚直に餌を探すのみである。丁度良い世捨て具合であるといえる。しかし、働き蟻がいなければ巣は運営できない。そして、何より他の生物より蟻が素晴らしいのは "休み" が存在する点にある。
働き蟻の中に一定数働かない蟻がいることは有名な話である。大多数の蟻がせこせこ働いている中、一部の蟻は何もしないのである。さらに、群れからこの働かない蟻たちを外すと、働いていた蟻の中から一定数の蟻が働かなくなる。つまり、働かない蟻たちは群れの形成に必要なのだ。なんともうらやましい仕組みである。
未知の方法で蟻同士が複雑なコミュニケーションをとっているのであれば、話は別だが、最近、人間が嫌になった時、私はしばしば蟻になりたくなる。
もう一度言っておこう。自分で言っておいて、意味がわからんが。

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