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咲き誇れない【小説】

 自転車はスピードを加速させて勢いよく坂を下って行く。下り切ると遠くに蛍光灯の光が眩しいコンビニが見えてくる。その光を見たとき、僕は無意識にブレーキレバーを握っていた。


 風呂が沸いた事を知らせるブザーがキッチンのほうから僕の部屋まで聞こえてくる。僕は重い腰を上げ、テーブルの上に置いてあったスマートフォンを掴み取ると、洗面所へ向かう。Tシャツを頭から脱ぐと、腐った油を生乾きの雑巾に染み込ませたような臭いが鼻をかすめた。履いていたジャージとパンツを脱ぎ、それらをまとめて洗濯籠へ投げ入れると、浴室へ入る。夕陽が差し込む、夏の終わりの浴室内は少し肌寒かった。五日ぶりの入浴であり、いつもより多めのシャンプーで髪を洗うものの、やはり一回では上手く泡立たず、結局髪は三回、体は二回洗って浴槽に浸かった。持ち込んでいたスマートフォンで今日のニュースを一通り閲覧すると、お気に入りのロックバンドのホームページにアクセスし、最新情報の更新をしていないかとチェックする。更新がない事がわかると、5ちゃんねる専用ブラウザを立ち上げ、ニュース速報板になにか面白そうなスレッドがないかを探し、見つけては次のスレッドを探し、を繰り返した。一時間半ほどその動作を続けると、身体は大分逆上せてきて、僕は風呂から上がった。
 髪を乾かさないままに部屋へ戻ると、テレビの電源を入れ、煙草に火を点けた。夕方のニュース番組の前を煙草の煙がゆらゆらと回遊する。二十三歳無職の青年が祖父を刃物で殺害したとのニュースが流れる。まるで僕の吸う煙草の煙がそのニュースと交わり、僕とその事件とを糾えているような気がして、僕は溜息をついた。いつまでもこんな生活を続けているわけにはいかない。そんな気持ちすら、このニュースは僕に与えた。
 髪がある程度自然に乾いてきた頃、一階のキッチンから、夕飯が出来上がった事を知らせる母の声が届き、テレビを消すと一階へと向かう。父はまだ帰っていないようだった。
「おはよう」
 母は当てつけるように僕に言った。僕は何も答えず椅子に座ると、それぞれの小鉢に分けられたきんぴらごぼうを摘み、食べた。
「あんた、最近また昼夜が逆転してるじゃない。せっかく最近、元に戻ってきたと思っていたのに」
「昨日まではちゃんと昼に起きてたよ」
「昼も夕方も大して変わらないでしょう。そろそろアルバイトでもなんでもいいから始めなさいよ。最近はお父さんも、そろそろ追い出すって言ってるよ」
「わかってるよ」
 母はたらたらと文句を垂れながら、僕の前へ白米を盛った茶碗を置く。
 追い出すのなら、大学を卒業したと同時に追い出してくれればよかったんだ、と僕は思った。甘やかして一年も家に居続けさせたせいで、こんな自堕落な生活が染み付いてしまったんじゃないか。しかし最近は僕も、そろそろ動き始めなくてはならない、と思い始めていた。あまり多くはない友人は皆、大学卒業後社会人として働いていた。半年ほどが経ち、そろそろ会社にも慣れてきた頃だろうか。そのような状況で先程流れていたニュースなどを見れば、自らを駄目人間だと自覚する僕のなかにも、働く意欲というものが一溜まりでも沸き出て来るというものだった。
「一ヶ月前も同じ事を言ってたじゃない。あんまり私達に心配掛けさせないでよ」
「だから、わかってるってば」
 刹那、玄関の鍵が回る、がちゃり、という音が聞こえた。このままここに居ては面倒な事になるだろうと予測した僕は、まだ回鍋肉を食べていたいところだったけれど、小さくご馳走様、と呟くと、階段を上がり部屋へと戻った。
 僕はすぐさまテーブルに置かれたノートパソコンの電源を入れ、インターネットの求人サイトでアルバイトを探した。何件かを見ていると、ある居酒屋の求人が目に留まった。『アットホームで楽しい職場!』、とのテロップが入った画像に写る女を僕はまじまじと見た。なかなかに好みのタイプの女だったのだ。画面を下へとスクロールしていくと、画像がさらに三枚ほど載っていて、そのなかの一枚に写る彼女は、一枚目の画像よりも尚更に可愛らしく写っているように思った。僕はここで働く事を即決すると、応募ボタンを押してページを閉じた。

 翌日にその応募先から電話が掛かってくると、三日後に面接をする事が決まった。その三日後というのが今日だった。面接時間の十五時に合わせるようにして中央線に乗り、二駅先の高円寺駅へ降りると、すぐ駅前にその店はあった。雑居ビルの三階に位置するその店へ入ると、威勢の良い声で若い男が僕を迎えた。アルバイトの面接である旨を伝えると、奥の席で応募シートを書いて待っているようにと言われ、僕は履歴書に書いた事と全く同じ事をそのシートにも書いた。履歴書があるというのに、何故またこんなものを書く必要があるのだろうか、と僕は不快に思いながらもそれを書き終えると、出された茶を啜りながら、相手を待った。
 現れたその男は、予想していたよりも若かった。恐らく二十代後半であろうと思った。
「店長のイウラです。よろしくお願いします」
 その男はぎょろりとした大きな目で僕の目を見ながら言った。図太く、暑苦しい声だった。
「よろしくお願いします」
「では、履歴書と応募シートを見せてもらっていいですか」
 鞄の中の履歴書が折れないように、と好きなアイドルの写真集のページに挟んでおいた履歴書を男から見えないように取り出し、応募シートと一緒に渡した。男は、なにやら小刻みに頷くと、訊いた。
「大学卒業後はなにをしていらしたんですか」
 予想通りの質問が投げかけられると、僕は予め用意していた返答で答えた。
「卒業後は近所のラーメン屋でアルバイトをしていまして、最近辞めたところです」
 勿論アルバイトをするのは、今回が初めてだ。
「なるほど、そのラーメン屋さんはどうして辞められたんですか」
 僕はまた、用意していたもので返す。
「そろそろ違うところで働いてみたい、と思いまして」
「……なるほど」 
 男はまた、書類を見ながら小刻みに頷く。
「週に何日くらい入れますか」
「三日くらいです」
「時間は十六時から二十三時くらいになると思いますが、大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
 そう答えると、男は大きく息を吸い、それを吐きながら言った。
「わかりました。では採用の場合、明日の昼頃に連絡させて頂きます。不採用の場合は連絡はしませんので、よろしくお願いします。では、以上となります」
「ありがとうございました」
 僕はそのまま店を出ると、エレベーターに乗って一階へ降り、ビルを出た。

 結論から言えばアルバイトは採用された。面接も特にミスなく無難に終えたし、居酒屋のアルバイトに落ちる人間のほうが珍しいのだろうけど。電話では、採用であるという事と、いつから働けるかなどを聞かれたり、汚れてもいいようなスニーカーを持ってきてくれ、ということを聞かされた。すぐにでも働けると答えると、明日から来てくれということだったので、了承した。僕はなにより、あの画像の女の子と早く会いたい心持ちだった。寧ろ、それしかなかった。

 バイト初日のその日、あの子はいなかった。初日にいきなり彼女について従業員達に聞く訳にもいかず、休憩時間までの三時間、僕は落ち込んだ気持ちのまま、仕事の流れについての説明を聞き、皿洗いと、お通しの簡単な盛り付けをして過ごした。
 キッチン裏の更衣室に置かれた椅子に座り煙草を吹かしていると、同じく休憩時間なのであろうホールの女が入ってきては、僕に訊いた。
「君、大学生?」
「いや、フリーターです」
「へえ、前はどんなバイトをしていたの」
 恐らく僕と同い年程の、顔はお世辞にも可愛いとは言えないその女に対して、僕は沸々とした苛立ちを覚えた。まず、初対面の相手にいきなりタメ口を話すような女が僕は嫌いだし、なにより目当てのあの子が居なかった事で、僕は多少気が立っていた。
「……ラーメン屋です」
 僕は呟くように言った。
「どこのラーメン屋?」
 今の突き返すような返答で、話し掛けられたくない事くらい察せないものかと僕は心のなかで舌を打った。適当に有名チェーン店の名前を答える。その僕の返答でようやく彼女も察したのか、制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を弄り始めた。この時僕は、生まれつき気の立ちやすい自らのこの性質にもまた腹が立っていた。この性質のせいで、今まで散々苦労してきたのだ。現在に至るまで僕に友人が少ないのは、この性質によるものが極めて大きい。しかしこればかりは生まれ持ったものであるが故、どうしようもない事だった。煙草の火がフィルターに近づくと、積まれたビールケースに置かれた灰皿で煙草の火を揉み消す。休憩時間が終わると、僕はやる気のないままに残りの仕事を淡々と続けた。

 家に帰ると僕は、さっそく求人サイトを開く。まだ居酒屋の応募ページは消えずに残っていて、やはりそこにはあの子の写真が載っていた。彼女はやはりあの居酒屋で働いているはずだ。どうやら僕とはシフトの時間が違ったという事だ、畜生、と一人ぶつぶつと呟きながら求人サイトを巡っていると、ある事に気づいた。僕の働く高円寺店の応募ページに載っている画像の店員達と、新宿店のページに載っている画像の店員達が全く同じだったのだ。僕は慌てて他店舗の応募ページも見た。画像は使い回されていた。これでは、そもそもあの店舗で彼女が働いているのかすら怪しくなってくる。僕の脳裏では、他のアルバイトを探したほうが良いかもしれない、という考えが過ぎった。仕事内容も立ちっぱなしでひたすらの皿洗いである。そもそも僕にはこんな仕事は向いていないような気もする。しかし、可能性こそ高くはないものの、彼女が働いている可能性が全くないという訳ではない。もう少しだけ様子を見よう、と僕は結論付け、ページをブックマークに登録しておいたアダルトサイトへと切り替えると、一発抜いたのだった。

 翌日、僕は皿洗いをしながらこの単調な作業の恐ろしいほどのつまらなさに気付き始めていた。このまま続けていけば調理担当に回され、多少は働き甲斐というものも出てくるのかもしれないが、その時が来るまで我慢できるほど、僕は人間として出来てはいないのだった。次の休憩時間にでもあの子について従業員に訊き、働いていないのであれば今日でこのバイトは辞めようと僕は決めた。
「ちょっと聞きたいんですけど」
 僕は、先に休憩を取っていたミヤタという男にあの子について訊くことにした。大学生である彼は、いかにも人生が充実し、その日々を満喫しているといった雰囲気を、体に纏った香水の匂いと共に放っていた。
「……なんすか」
 スマートフォンを弄っていたミヤタが僕のほうを見やる。
「この画像の子って、ここで働いているんですか」
 僕はスマートフォンの画面を彼へ向けた。
「……ミサトっすか。働いてますけど」
 彼はぶっきらぼうに答える。僕はおおかた働いていないだろうと予想していたので、少なからず動揺した。
「どうしてです?」
「いや、可愛い子だな、なんて思いまして」
 彼は、鼻から息を漏らし不敵に微笑むと、言った。
「ちょっと前までは今の時間帯に働いてたんすけどね、最近、朝のシフトに変わったんすよ」
「……ああ、そうなんですか」
 ミヤタは立ち上がり、休憩頂きました、と気怠気に言うと、更衣室から出て行った。
 働く時間帯が違うのでは、それは他店舗に居るのと変わりはない。あと半月ほど働いて給料が入ったのならば、このアルバイトは辞めてしまおうと僕は決めた。

「どう、仕事は慣れてきた?」
 キッチンで刺身を盛り付けるイウラにバイトを上がる事を伝えると、訊かれた。
「そうですね、まあ」
「これからは調理も担当してもらう事になるから、前に渡したメニュー表を見て、今のうちに料理名くらいは覚えておいてな」
 どうせもう辞めるバイトだし、メニュー表を覚えるくらいならこのまま皿洗いのほうがマシなのだけど、などと思いながら僕は適当に相槌を打つと、挨拶をして更衣室へ向かった。

 ベッドに寝転がり、テレビから流れるバラエティ番組を聞き流しながら、僕はこれからの半月を考えて憂鬱な気持ちになった。第一に、彼女がバイト先に居なかった事がある。厳密にはバイト先には居るのだけれど、働く時間帯が違うのであれば、それは居ないも同然であった。更には、仕事の異常なほどのつまらなさだ。そもそも僕がこの仕事を始めたのは彼女と一緒に働けるという事が前提にあったのであり、それはもう有り得ないとわかった今、このままアルバイトを続ける意味など何処にもなかった。一刻も早く辞めてしまいたいところだが、ここでバックレて給料がもらえないというのは癪だった。せめて彼女ほどとはいかなくとも、顔の良い女が多少でも働いているのであればやる気というものも沸いてくるものであろうが、いかんせんどうにもブスな女しかいないのだった。居酒屋と言えば可愛い女が働いているのだろうという僕の固定観念は、夕方の波打ち際に建てられた砂の城のように、跡形もなく崩れ去っていた。あのようなところで働き続ける男達の気が知れなかった。一体なんの得があって働いているのだろうか。奴らも僕のように求人サイトの画像に騙されて門戸を叩いてしまったのだろうか。そして止むに止まれず働き続けているのだろうか。そんな事を考えながら、僕の意識は部屋の暗闇と徐々に同化していくのだった。

「料理名、覚えました?」
 皿を洗う僕にミヤタが聞いた。覚えている訳がないだろう、と僕は心で舌を打つ。
「まだ覚えてないです」
「そろそろ覚えてくださいよ、いつまでも皿洗いってわけにもいかないんすから」
 どうせあと半月で辞めるのだから、このまま皿洗いのほうが良いのだけれど、と僕は思った。
「次に入る時までには全部覚えておいて下さいね」
 吐き捨てるようにそう言い残すと、ミヤタは自分の持ち場へと戻って行った。やはり、残りの期間を皿洗いのままで終えるというのは難しいようだった。僕はあと二十日も経たぬ内に辞めるアルバイト先のメニューを覚えるという、なんとも不毛な義務を課せられる事となった。そう考えると無性に苛々として来て、洗っている皿を思い切り床に叩き付けてやりたい衝動に駆られたが、その気持ちを大きく舌を打ってやり過ごす。キッチン内には常に作業音が響いているから、誰にも聞こえはしないのだった。
 休憩時間、前にやかましく話し掛けて来たあの女と一緒であったけど、彼女はもう話し掛けては来なかった。それはそれで少し寂しくも思った。しかし、いくら今まで彼女などいた事のない僕であっても、こんなガサツで下品な女と仲良くなりたいと思うほど、僕は浅ましい人間ではない。

「さすがにもう覚えましたよね」
 ミヤタに料理名を覚えるように言われてから、四日ほどが経っていた。昨日の夜、覚えずに行って怒られるのが嫌だった僕は、二十種類はあるメニューを覚えようと必死だった。しかしどの品も、例えば鯛の塩釜焼きであるならば、素直にそのままそれを品名にすれば良いものを、『日本海産 獲れたて鯛の岩塩釜焼き』などと、わざと覚えにくくしているのではないかと思うくらいに小難しい名前を付けていて、とても一日で覚えられるような代物ではなかった。途中で馬鹿らしくなってきた僕は、三分の一ほどは覚えたであろう、というところでそのまま寝てしまい、復習もしないままに今に至っていた。
「えっと、三分の一くらいなら」
 そう答えると、ミヤタの顔付きが変わった。
「は? 今日までに覚えて来てくれって言いましたよね?」
 呆れた表情を見せるその顔に、僕は唾を吐きかけてやりたかった。あんなもの、そう簡単に覚えられる訳がない。ほとんどの奴は一生懸命に覚えてくるのだろうけれど、それはここでこの先も働く意思のある人間の話である。もうすぐに辞めるアルバイト先の料理、しかもあれだけ無駄に長ったらしい品名を覚える意欲など、僕には沸くはずもない。そんな僕の状況も知らずに、この男はまだなにかをぶつぶつと言っている。
「覚えて来てって言ったら覚えて来て下さいよ。このままだと、ずっと皿洗いすっよ」
 だから僕はそれでいいというのに。 
「だったら、今日もずっと皿洗いしておいて下さい」
 ミヤタは溜息をついてそう言うと、頭をわしゃわしゃと掻きながら更衣室へと向かって行った。話を近くで聞いていた、僕が働き始める少し前に入ったばかりである、大学一年生であるらしいサヤマが言った。
「あの人、キレると怖いからあんまり怒らせないほうがいいですよ。ひょっとしたら僕にだって飛び火するかもしれないし」
 僕は適当に相槌を打つと、そのままひたすらに皿を洗い続けるのだった。

 アルバイトを始めてから二十日ほどが経った。料理名を覚えなかった事でミヤタに呆れられたあの日、僕は家へ帰ると、途中なんども文句を垂れながらもその全てを覚え切った。するとその翌日からは、ある程度完成した料理の簡単な飾り付けを任されるようになった。とはいえ、まだ仕事の八割は皿洗いのままである。あれだけの品名を全て覚えたというのに、その努力を無駄にするのも癪だと思い、もう少し働き続けてみようとも考えたが、やはり彼女と会えないのであればモチベーションなど上がらないし、彼女より顔の良い女のいるアルバイト先が、探せばきっとあるはずだと思った。そう考えると、やはりここで働き続ける意味はないと思った。しかし、と僕は思った。仮に彼女が居たところで、僕に何が出来るのだろうか。今まで一度も彼女など出来た事もなく、顔の良い女には話し掛けられただけで緊張してしまうような僕だ。(顔の悪い女とは、自分でも不思議なほどに卒なく会話が出来た。)仲良くなるなんて当然出来る訳もないし、むしろ辛い思いをするだけなのかもしれない。どうせ僕には恋仲になるどころか、友人になる事すら出来はしないのだ。なんと悲しい性なのだろうかと思った。しかし、僕はそれでも良いと思うようにしていた。今までもずっとそうしてきたのだ。自分の傍に女が『存在』している。ただそれだけで、僕のような人間にはきっと、ありがたい事なのだろう。

「フルヤさん、来週の飲み会、行きますか」
 僕と同じくして休憩に入ったサヤマが訊いた。
「飲み会?」
「ここって月一で社員とアルバイトで飲み会を開いてるらしいですよ。聞いてないですか」
 初耳だった。まだ聞かされていないだけなのか、それとも誘われていないのか。どちらにしても行く気などは微塵もないのだけれど。
「行かないかな。君は?」
「行きますよ。行ったほうが良いと思いますよ。せっかくみんなと仲良くなれるチャンスだし。あ、そういえばミヤタさんが言ってましたよ、ミサトさんも来るって」
 予想はしていたが、ミヤタの奴、どうやら僕が彼女について訊いた事を皆に言いふらしていたのだ。それにしても、その言葉で僕の気持ちは揺らいだ。どうせなら辞める前に、一度彼女を直にこの目で拝んでみたいという思いもあったからだ。
「実は僕も、サイトの画像を見てちょっと期待してたんですよ。そしたらシフトが違うってわかって」
「そうなんだ」
「もし行くのなら、早めにイウラさんに言ったほうがいいですよ」
「うん、そうするよ」

「ああ、そう。来週の水曜日、新宿駅の東口で待ち合わせだから」
 上がりの時間を迎え、いつものようにイウラに挨拶をするついでに僕も飲み会に参加する事を伝えると、彼はどうでもいい、といった様子で答えた。

 それから飲み会までの三日間、僕は仕事を黙々と続けた。全ての料理の飾り付けを覚え、余った時間に皿を洗うという具合だった。なかなか要領が掴めず、イウラやミヤタなどに叱責され続けた三日間だった。特に、仕入れた食材を勝手に冷蔵庫に詰め、冷蔵庫内の陳列を滅茶苦茶にしてしまった時は、社員であるカワシマに酷く怒られた。このカワシマというのは、少しのミスでもヒステリックなほどに怒る、このバイト先で僕が最も苦手とする男だった。白髪交じりの長い髪をした中年のその男は、いい年をしてこんな小さな店で社員として働き続けるのだろうか。そう考えると、僕はこの男に哀れみさえ感じてしまうのだった。
 それにしても、この職場の皆は仕事について少し厳し過ぎるのではないかと思う。イウラやミヤタ、カワシマにしても、もう少し優しく指導する事は出来ないものか。僕は昔から、褒められて伸びるタイプなのである。そうとも知らずに厳しく僕に当たる彼らのその態度を見ると、彼らは人の内面を見抜く能力が欠如しているのだと僕は彼らを見下さざるを得なかった。

 新宿駅前には飲み会に参加する十数人が集まっていた。それぞれ仲の良い者同士で集まって、もう集合時間はとっくに過ぎているというのに、いつまでも『たらたらと楽しそうに』笑い合っていた。僕はというと、サヤマと二人、奴らから少し距離を置いた場所で、特に話をするわけでもなく、スマートフォンで見たくもない5ちゃんねるのスレッドを眺めているのだった。同じくサヤマもスマートフォンを弄り、その顔は画面から発せられた光にうっすらと照らされている。それにしても、未だ彼女の姿が見えない。なにか急な用事でも入って来れなくなってしまったのだろうか、と僕は不安になった。そうであるならば、僕がこの飲み会に参加する意義が消失してしまう事になる。この時僕は誰にも気付かれぬように帰ってしまおうとも考えたが、遅れてやって来る可能性も考慮して、やめた。
 ようやく今回の飲み会の幹事である男が店へ向かおうと皆を促すと、それぞれのグループは話を続けたままに足を同じ方向へと向かわせた。

 会場であるチェーンの居酒屋に着くと、宴会用の十畳程ある個室へと入った。仲の良い者同士で近くに座り、メニュー表を開いては何を注文しようかと話している。僕はというと、サヤマが空いた隅の席へ座ったので、隣へと座った。
「お酒、強いですか?」
 サヤマが僕に訊く。
「強くもないし弱くもないかな。君は?」
「僕はあんまり強くないです。だからこういう場も久しぶりで」
「普段、飲みに行ったりはしないの」
「行かないですね。友達はよく行ってるらしいですけど」
 そんなような事を話していると、店員が襖を開け、注文を聞きに来る。それぞれが注文をし終え、僕とサヤマに順番が回ってくる。僕が生ビールを頼むと、彼も同じものを頼んだ。店員は注文した品を復唱すると去って行った。するとまたそれぞれは雑談を始める。ミヤタは女二人に両脇を挟まれ、スカした表情で煙草をふかしながら、女の話に相槌を打っていた。イウラはカワシマと仕事についての話をしているようだった。それにしてもここで働いている女というのは、見事にブスしかいないものだと改めて思った。この光景を見ていると、彼女は本当はここで働いていないのではないかとさえ思えてくる。
 それにしても彼女は来なかった。もう飲み会が始まって一時間ほどが経っていた。ほどよく酒が回ってきて、皆、始めのうちよりも声が幾分大きくなり、賑やかさが増していた。そんな中にいる僕とサヤマは、まるで取り残されていた。サヤマは学生だというので、どんな学部でどのような事を勉強しているのかだとか、サークルには入っているのか、だとか、他愛もない話を暫く話したものの、特に盛り上がる事もなく、自然と二人の視線はスマートフォンの画面へと落ち着いていった。やはり今日は彼女は来ないのであろうと思った。そうであるなら、僕にはもうこの場にこれ以上残り続けることは耐えられなかった。トイレに行くと見せかけて帰ってしまおうと、僕は席を立ち、襖を開けた。
 一階に向かうエレベーターの途中、僕はスマートフォンを座敷に忘れた事に気付いた。仕方なくエレベーターの七階行きのボタンを押すと、居酒屋へと戻った。襖を開けると、数人が僕のほうを見たがまたすぐに視線を元へと戻した。僕は忘れたスマートフォンを掴み取り、足早にその場を去ろうとしたが、横目に見慣れぬ面影を感じ、視線を向けた。そこには彼女が座っていた。僕はまるで好きなアイドルを直にお目にかかれたような興奮を感じた。思わず顔がにやけてしまい、顔を俯かせると、体をユーターンさせ席へ戻った。周りを見渡したが、どうやら僕の不自然なその動きには彼女も含め、誰も気付いてはいないようだった。サヤマは相変わらずにスマートフォンの画面に夢中だった。僕はもう一度彼女を見やった。彼女は画像で見るよりも余程可愛かった。小動物のような、どこかあどけなさを残した瞳に、小さな小鼻、淡く茶色味がかった長い髪は、さらりと胸の辺りまで垂れ下がっている。僕は胸の高鳴りを感じたまま、ただ俯きながら気味の悪いほどににやついているのだった。
 その後も僕は、彼女に話し掛けるなどという芸当は出来る訳もなく、スマートフォンを弄るか、サヤマと一言二言の会話をするかで、あろうがなかろうが誰も気に留めない街中の公衆電話のように、その場にひっそりと残り続けていた。彼女はというと、ミヤタと楽しげに何かを話していた。二人してちらちらと僕のほうを見ているような気もしたが、きっと僕の自意識過剰だろう。
 場の雰囲気も落ち着いてきて、そろそろお開きになるだろうと思っていた頃、彼女がこちらに向かって来るのが視界に入る。僕の近くの誰かに用があるのだろうと思い、彼女と近付ける事に喜びを感じた。しかし、一人、また一人と彼女は座る者達を通り過ぎていく。そしてついに、僕の座るところにまで来ると、フルヤ君だよね? などと僕に話し掛けてくる。僕は何が起きているのかと思考の処理が追いつかぬままに返事をした。
「ここのバイト、いつから入ったの?」
「えっと、二週間くらい前ですかね」
「そうなんだ。ちょっと話そうよ、中々会う機会もないし」
 僕が了承すると、彼女は部屋の隅に座り、僕に手招きする。すると僕はまるで彼女の飼い犬の如く彼女の隣へと座った。
「どう、仕事は慣れた?」
「いや、あんまり慣れないですかね。いつも怒られてばかりで」
「そっか。でもまだ二週間でしょ? きっとすぐに慣れると思うよ」
「そうですかね」
「うん」
「ミサトさんが働いてる時間帯って何時くらいなんですか」
「名前知っててくれてるんだ。わたしは十二時からの三時間くらいかな。フルヤ君は、そのちょっと後からだよね」
「どうして知ってるんですか?」
「あ、えっとね、ミヤタから聞いて」
「ああ、そうなんですか」
「よかったらなんだけどさ」
「はい」
「LINEとか聞いてもいいかな」
「……え」
 心の中で発するべき声を、思わず口に出してしまう。
「駄目かな」
「いや、いいですよ、勿論」
 僕はテーブルに置かれたスマートフォンを掴むとアプリを起ち上げ、LINEの連絡先を交換した。
 本来ならばその店を最後に僕は誰にも気付かれぬようにフェードアウトする予定だったのだけど、すっかり舞い上がった僕は二次会のカラオケにも参加した。部屋に入り気付いた時にはサヤマの姿はなかった。トップバッターであった彼女は流行りの女性アイドルグループの曲を歌い、ミヤタが合いの手を入れたりして、皆大いに盛り上がった。続く者達も、若者ならば誰でも知っているような流行歌を歌った。そしてついに僕の番が回って来る。皆と同じくその場に合わせて流行歌でも入れておけば良いものを、自分でも何故そうしたのかわからないが、音楽に詳しい人間でさえ知らないようなマニアックなロックバンドの曲を機械に転送してしまう。すぐに予約を取り消そうとしたが、リモコンは既に反対側の席へと回ってしまっていた。ついにイントロが流れ始め、曲名と歌手名が画面に表示される。刹那、その場が静まり返るのを感じた僕は、その場から消えてしまいたい衝動に駆られた。半ばやけくそといった感じで僕が歌い始めると、皆はまるで誰も歌っていないかのように雑談を始めたりスマートフォンを弄り始めた。歌い終えた僕は、居ても立っても居られず、黙って部屋を出ると店の出口へと向かった。

 あの日を、良い日だったのか悪い日だったのかと問われれば、僕は良い日だったと答えるだろうと思った。それは当然、彼女と会話が出来たどころか、連絡先まで交換してしまった事が要因であった。あの状況からして彼女は僕に気があると考えるのが普通だろう。誰であってもそう考えるはずだ。この事実に、僕は浮かれずにはいられなかった。辞めようと思っていたバイトも、例え彼女が同じ時間に働いていなくとも、続けようと思った。あの日の出来事は、僕にそう思わせるには十分だった。

 僕は相変わらずに皆に小言を言われ続けていた。皆、というのは、最近ではミヤタやカワシマだけでなく、サヤマを除く、同じ時間に働く従業員のほとんど全員から言われるようになったのだ。今日だって盛り付けが違うだとか、食材の保存場所が違うだとかで叱責を受けた。僕は昔から要領が悪いのだ。それを理解せずに、ひたすらタンバリンを叩き続ける事しか出来ない猿のおもちゃのように叱責し続ける事しか出来ない彼らは、本当に愚かな人種であると思った。しかしそれらについて僕は、以前ほど気に障る事はなくなった。連絡先を交換した翌日から、彼女と毎日のようにメッセージのやりとりをするようになったからである。初めにメッセージを送って来たのは彼女のほうからで、「明日もバイトがんばろうね」、「今日のバイトはどうだった?」、などと言った他愛もない内容だったが、それでも僕は十分に嬉しかった。それらのメッセージを読むだけで働く意欲が沸いた。僕というのは実に単純な生き物であると思った。今日もこれからバイトが入っていた。しかし以前バイトに行く前に感じていた倦怠感というものは、彼女のメッセージのおかげでほとんど無くなっていた。僕は身支度を済ませると、半ば軽やかに玄関のドアを開けるのだった。

「最近、なんだか楽しそうですよね、フルヤさん」
 サヤマが言った。
「そうかな、そんな事もないと思うけど」
「そうですか?」
 実際、バイト自体は勿論楽しんではいない。当然怒られるのは嫌だし、ミヤタやカワシマに会うと真底憂鬱な気持ちになった。だからバイト中はそんなに気分が上がっている訳ではないはずなのだが、どうやら彼女から届くメッセージによって生じる幸福感というものが、時折顔に出てしまっているらしかった。今この瞬間も、今夜もまたメッセージが届くのではないかと思うと、顔つきが緩んでしまうのを感じた。
「あの時、ミサトさんとなにかあったんですか」
「あの時って?」
 わかっていて、あえて訊いた。
「飲み会の時ですよ。僕の後ろでミサトさんと二人、なにか話してたじゃないですか」
「ああ、いや、別になにもないよ」
 そう答えるとサヤマは、そうですか、と言って先に休憩を上がって行った。僕も吸っていた煙草を灰皿で揉み消すと、更衣室を出て仕事に戻った。
 その夜にメッセージは来なかった。しかし、一昨日に届いたメッセージが僕に与えたエネルギーが未だ残っていた。そのエネルギーを心に抱いたまま、僕はまたアルバイトへと向かうのだった。

「そろそろいい加減にしてくれよ」
 カワシマが冷蔵庫を整理しながら言った。
「前にも言ったよな、この肉は冷凍庫に入れろって」
 僕は、はい、と頷く。するとカワシマは溜息を漏らし、
「何回言わせるんだよ。お前頭大丈夫か?」
 と強い口調でそう言った。ここまで強く言われたのは働き始めてから初めての事で、僕は動揺した。人間、成人を迎えてから怒鳴られて叱責されるというのは、こんなにも屈辱的で惨めな思いをするものなのだと、僕は思い知った。しかし同時にこの男の言った、頭大丈夫か、という発言に対し、堪えようもない怒りを感じたのも事実だった。僕の人格を否定するその発言は、僕の自制心を大いに揺るがした。言い返し、そのまま帰ってしまおうかとも思った。反論の言葉が喉の奥まで出掛けたところで、ふと彼女の顔が思い浮かんだ。ここで辞めるような事になってしまっては、もう彼女と会えなくなるかもしれないし、メッセージだって二度と来なくなってしまうような気がした。そう考えると、この男を心ゆくまで罵倒してしまいたかった感情をなんとか落ち着かせ、僕は彼に謝ると、肉を冷凍庫に移動させるのだった。

 家に帰りベッドに倒れ込んだ僕には、未だカワシマへの怒りが煮えたぎっていた。その怒りを床に転がっていたボックスティッシュへと向け、僕はそれを思い切り壁へと投げつけた。カワシマ、いつか痛い目に合わせてやる。僕は顔をひくつかせ、拳で何度も敷布団を殴った。
 そんな時、メッセージが届いた事を知らせる着信音がスマートフォンから響いた。送り主はミサトさんだった。先程までの怒りが何処か遠くの海のほうまで飛んで行くと、僕はメッセージを読んだ。カワシマに怒られた事を心配する内容のメールだった。何故彼女がその事を知っているのかと疑問に思ったが、そんな事はどうでもいいし、僕と同じ時間に働く誰かがチクリを入れたのだろうと思った僕は、その後三通ほどのメッセージを彼女と交わしたのだった。

 相変わらずにカワシマは僕に対して素っ気ない態度だったが、僕がミスをした時には狂ったように怒った。しかし心の中で完全に彼を見下していた僕は、怒られてもそれをただ聞き流す事にした。このような人間の話などまともに聞いていてはこちらまでおかしくなってしまう。相手は半ば呆れている様子だったが、呆れてしまうのは僕のほうである。

 このところ、職場から孤立しているような感覚を覚え始めていた。カワシマ、ミヤタは然り、他の奴らも僕に対する態度が素っ気ないというか、冷たいような気がした。確かに僕はミスが多いほうなのかもしれないが、だからといって寄ってたかってこのような態度を取るというのはいかがなものだろうか。慣れない事をすれば始めのうちは上手く出来ないのは当たり前ではないだろうか。それとも仕事が出来ない事の他に、僕になにか問題があるとでもいうのだろうか。しかし僕にとってはもはやそんな事はどうでも良かった。この職場に残り、彼女との関係が続くというのなら、それだけで良かった。

 ミヤタにこっぴどく叱られた後の帰り道、僕の心は嬉しさに満ちていた。勿論マゾの気質に目覚めた訳ではなかった。更衣室で着替えている最中、彼女からメッセージが届いたのだ。それも、今までのような他愛もない内容のメッセージとは訳が違った。人生で初めてデートに誘われたのである。三日後の昼に、新宿駅の東口で待ち合わせだった。僕は明日、貯金を全てはたいてでもなるだけお洒落な服を買おうと決めた。暫く行っていなかった美容室にも行こうと思った。とにかく今の僕は浮き足立っていた。こんな事、現実に起こり得るものだろうか。一目惚れをした女があちら側から連絡先を訊いてきたかと思えば、積極的にメッセージを送ってくれ、デートにまで誘われるなんて。しかもまだ出会ってから数週間ほどしか経っていないというのに。人生とは何が起こるかわからないものだ、などと僕は最寄り駅の改札を抜けながら思った。

 服も買い散髪もした。後はもう彼女を待つだけだった。僕は東口の改札を抜けた先で彼女を待った。平日の昼の新宿駅前はやはり人が多かった。昼休憩中であろうサラリーマンや、何をして生計を立てているのかわからないような中年、アルタ前には大勢の人達が集まっているのがわかる。きっとバラエティ番組の放送時間が近い為であろうと思った。緊張でからからに渇いた口内を自販機で買ったジュースで潤わせていると、後ろから声がした。
「お待たせ」
 暫く会っていないというのに、僕にはその声の主が直ぐとわかった。
「いや、全然待ってないですよ」
「そう? じゃ、行こっか」
 彼女は僕の手を取ると、繁華街のほうへと向かった。僕の心臓は痛いほどに鼓動していた。
 彼女の主な目的は買い物で、元は友人と一緒に行く予定だったはずが、急な都合で来れなくなってしまい、一人で行くのもなんだからと僕を誘ってくれたとの事だった。そのような理由だとしても僕は嬉しかった。こんなに可愛い女とデートが出来るのだから当然だ。

「これ、可愛くない?」
 棚に並んだ靴のひとつを指差し、彼女が言った。
「はい、良いと思います」
 彼女はそれを手に取ると、その場で、なんと僕の肩に手を突きながら片方を履いた。
「うん、サイズもぴったり。でもちょっと高いかな」
 彼女は鏡の前に立ち、そのまま黙って自身の姿を確かめた。
「……あの、買ってあげましょうか」
 僕は昨日のうちに下ろしておいた、振り込まれたばかりのバイト代の半分の額を占めるほどの値段を確かめ、言った。
「え、いいの? こんなに高いもの」
「はい。いつもLINEで励ましてくれてるお礼もしたいので」
「ええ、ありがとう。じゃあ、お願いしちゃおうかな」
 彼女は履いていた靴と棚に置かれたもう片方を笑顔で僕に渡した。その笑顔は靴の値段などどうでもいいと思わせてしまう程の光を放っているように思った。僕は受け取った靴を手に、心地良い気持ちでレジへと向かった。

 その後も数件の雑貨店や洋服店を回り、その度に僕はお金を払った。最後の店を後にした時には、財布には元々の十分の一の金も残っていなかった。しかし僕は後悔どしていなかった。金を払う事が、本当に楽しかったのだ。人の為に金を使う事がこんなに楽しいと感じられたのは、生まれて初めての事だった。

 日も暮れ、そろそろ夕食の時間だと思った。その時になって僕はようやく気付いた。夕食をご馳走出来る程の金がもう残っていなかったのだ。最後の最後でしくじってしまったと思った。せっかくここまで良い雰囲気で過ごす事が出来たというのに、夕食だけ割り勘という訳にもいかなかった。しかし僕と彼女の足は既に彼女のお気に入りだという店へと向かっていた。ここで急に用事が出来たと言って帰るのも不自然だし、どうしたものかと考えていると、どうやらその店に着いてしまったようだった。雑居ビルの一階に佇むイタリア料理店の前で彼女は立ち止まる。すると彼女はおもむろにスマートフォンを取り出し、誰かに電話を掛け始めた。通話相手と一言二言会話を交わすと、彼女は電話を切りそのまま動かなかった。僕がどうしたの、と聞いても、彼女からは何の返事もない。
 すると一分も経たぬうちに、僕もよく知る男が店の中から現れた。ミヤタだった。なぜ彼がここにいるのか、とひとり混乱していると、彼は言った。
「ミサトー、ご苦労さん」
「ううん、むしろありがたかったよ。こんなに色んなもの買ってもらっちゃったし」
「うわ、すげえ」
 ミヤタとミサトさんは二人してけらけらと笑った。僕はなにがなにやらわからず、間抜けに口を開け二人をぼんやり見つめていた。
「フルヤさん、これどういう事だかわかります?」
 ミヤタが言った。
「……どういうこと」
「まあ、なんだろうな、ストレス解消、みたいな?」
 彼女は笑っていた。その顔は、僕のイメージする彼女がするはずのないような顔だった。
「入った頃からムカついてたんすよね。仕事もやる気ねえし、要領も悪いし。まあ、自業自得じゃないですか? フルヤさんのせいで溜まったストレスを、本人で晴らしたってだけですし」
 僕の目からは大粒の涙が溢れ出た。気付いた時には僕は最寄り駅行きの下り電車に乗っていた。涙は、ひたすらに溢れ続けた。

 テレビでは、僕よりひとつ年上の男が違法なわいせつ動画を自宅のパソコンからネット上にアップロードして逮捕されたとのニュースが流れていた。自分一人で楽しんでいればいいものを、法を犯してまでなぜ他の人間に配布したいと思うのか、この手のニュースを見る度に僕は毎度不思議に思った。
 僕はまた以前のように家に引きこもるようになった。両親は早く次のバイトを探せと口うるさく言うけれど、あの店を辞めてから既に三ヶ月が経とうとしていた。やはり僕にはアルバイトすら続ける事が出来ないのだ。自身が社会に向いていない人間であるという事は、僕が一番よくわかっている。あの時は気の迷いでバイトを始めてしまっただけで、僕の性質上、今のような生活が最も自身に適合しているのだ。両親だって働けと言うものの、僕を追い出すような覚悟もないではないか。今のこの与えられた環境を受動的に生きてゆけ、と神からの提示でも受けているように思った。この先の人生も、もうどうでもいいような気がした。なるようになるのだ、人生なんてものはきっと。一階のキッチンから、夕食が出来た事を知らせる母の声が聞こえた。

 夕食を食べ終えた僕はいつものようにYouTubeで好きなバンドのライブ動画を観ていた。既に五十回は観たであろう動画だった。今日も既に二回は観ていた。演奏が終わり、他のライブ動画を観ようと関連動画を見漁っていると、初めて目にするバンドの名があった。僕は何となしにそのバンドの動画を再生した。

 夜の住宅街は帰宅途中のサラリーマンや学生がちらほら歩いているだけだった。僕は行く先もなく、ひたすらに自転車を漕ぎ続けていた。住宅街を抜け、雑木林に囲まれた神社の境内を全速力で通り抜けていく。繁る木々の隙間から月の光がうっすら見えた。
 三ヶ月ほど前にデビューしたばかりのバンドだった。歌詞もメロディも、僕の好みにぴったりと嵌ったそのバンドの動画を一通り観漁り、僕は彼らの公式ホームページへと飛んだ。彼らのプロフィールによると、メンバーは全員僕と同い年だった。それを知った次の瞬間には、僕は自転車で夜の街を全速力で走っていた。気付いた時には土地勘もない住宅街のなかだった。
 このまま何処か遠くへ行きたいと思った。何処でも良かった。千葉の外れのほうまで行って、海でも見に行こうと思った。僕はひたすらにペダルを踏み続けた。


 急ブレーキで止まった道の遠くにはコンビニの蛍光灯が眩しく光っていた。何故僕はブレーキを掛けてしまったのだろうと思った。先程までの何かに縋るような心持ちも、何処まででも行きたいと願った衝動も、もう消え去ってしまっていたのだった。僕はそんな自身を鼻で笑った。自転車を降り、ハンドルを引き返すとそのまま歩いた。
 僕だって変われるものなら変わりたい。でもこの先もきっと変わることは出来ないのだろう。澄んだ夜空のなかに、小学生の頃、理科の授業で習ったオリオン座を見つけ出しながら、そう思った。

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