赤薔薇の花香る頃に白百合の花咲く【前編】
「一緒に天使の絵本を読みましょう。ゆり。」
「ええ。私、れいこと一緒に絵本を読むのが好きなの。」
全寮制の聖ミシェル女学院中等部。
そこに美しい天使が二人いた。
犬飼れいこ。
早見ゆり。
二人の微笑みあう姿は、丘に揺れる白百合。
二人の笑い声は、さやけき風。
二人見つめ合う瞳の輝きは、瑠璃。
二人は神様に選ばれた天使。
そう、ゆりにれいこは教えてくれたし、れいこもそのつもりで教えた。
誰しもが羨む二人はいつも一緒で、慈愛に満ちた神様に全てを捧げることを誓っていた。
「神様に選ばれた私たちは特別なお友達。」
赤薔薇の花香る頃に白百合の花咲く
「この女学院に入学することを私はどれだけ待ち侘びたことでしょう。私、ここできっと美しい日々が送れるのだわ!」
フランス人形のようにくるくるの巻き毛、琥珀色の輝く瞳。熟れた桃のような艶やかで甘い唇。
彼女、実は天使なのよと言われても何も疑うことなどないだろう美しい少女。
天使の名前は、早見ゆり。
桜舞うこの春。
ゆりは、少女だけという特異で閉ざされた花園…全寮制の聖ミシェル女学院へと足を踏み入れたのだった。
着慣れぬ制服の裾を何度も引っ張っては身だしなみを整える。
これから始まる毎日に胸を高ならせながら。
ゆりの家は代々、敬虔なカトリック信者で、毎週教会に通っていたし、毎日神様に祈りを捧げていた。
だから、何の疑問もなく喜びに満ちながら名門のミッション系女学院へと入学したのである。
きっと神様が見守ってくださるに違いない。
きっと神様の御許で美しく輝きに満ちた日々が送れるに違いない。
そう信じて。
だが、いつの世も信じた理想がそこにあるのは稀なことで、ほとんどは無常に流れ行く現実だけ。
「あら、ごきげんよう。早見さん。」
「ごきげんよう、早見さん。」
「早見さん、ごきげんよう。」
授業が終わるとクラスメイトの少女たちは、次々へとゆりに挨拶をした。
「あ…あの…!」
引っ込み思案のゆりが、一握りの勇気をもって話かけようとすると、少女たちはくすくすと笑うのである。
「まぁ、早見さんの言葉って控えめだから何を言っているか分からないわ。」
「聞こえたとしても、私たちにはきっと理解できない内容なのでしょう。」
「私たちとは違ってお綺麗ですから。」
「私たちとは比べようにないほどお綺麗だもの。」
「早見さんは特別お綺麗なのよ。私たちは敵わないわ!」
少女たちはゆりを侮蔑するような目で笑いながら、長いスカートを嫌に綺麗に翻して足早に去っていくのだった。
ゆりの挨拶など誰も聞かずに。
「ごきげんよう…みなさん…。」
ただ静かにこうべを垂れるゆりの姿といったら、哀れ白百合の花の重さに耐えかね茎が折れる様。
だが、茎が折れてなおも絵になる。
そんなゆりの美しさは誰もが目を引くものだった。
また元々、頭の回転が速く、それに甘んじることなく、さらに勤しむ姿は教師たちに気に入られていた。
そして何より彼女の家柄はこの女学院の誰よりも由緒正しいものであり、浮世を遥かに離れた裕福な暮らしをしていた。
彼女のような完璧な少女の行く末は二つ。
取り巻きがつくか、または邪険にされるか。
ゆりの場合は、完全に後者。
彼女の内気な性格がそうさせていた。
毎日、お綺麗ですことお綺麗ですことと陰で笑われては無視される毎日。
清く美しい桜の園も、一度こうなってしまっては施しようがない。
散る花びらは少女たちに踏まれ醜く地に張り付く。
ゆりを嘲笑う少女たちは根っからの悪ではないのだが、閉ざされた世界では一瞬で全てが狂う。
此度の引き金がゆりである。
この上は、また新しい春を待つしか方法はない。いつ訪れるかわからぬ春を。
いつもいつも酷い目に合う。
こんなにお祈りしているのに。
神様は私をお見捨てになったの!?
泣きながらそう思っていると、その時ゆりの前に輝く天使が現れたのだ。
「犬飼さんだわ!」
「ごらんなさい、れいこ様よ!」
「なんて美しいのでしょう。」
高身長にスラリとした美しい体型。
長い髪を揺らしながら。
切れ長の涼やかな目。
自信に満ち、上がる口角に花を添える口元の黒子。
誰も寄せ付けないオーラをまとった少女。
犬飼れいこ。
中等部一年ながら誰よりも美しく聡明で、学年…いや、学院中で有名な少女。
彼女が甘い声をかければ、女学生たちはその甘さに酔いしれる。
彼女が熱を帯びた目で見つめれば、女学生たちはその熱にうかされる。
彼女のその美しさは、学院中の女学生たちを牛耳ることもできるほどの力を得ていた。
「犬飼さん…なんて素敵な人なのかしら…私も犬飼さんのようになりたい…そうしたら私も毎日が美しく輝くに違いないのに。」
でも。
犬飼さんは天使であって、自分は…。
そう思うと、今までこらえていた悲しいことや辛いことが全て込み上げてきて、ゆりは逃げるようにその場を去った。
こんなにお祈りしているのに。
神様は私をお見捨てになったの!?
学院の森でしばらくさめざめと泣いていると、少しだけ気が楽になった。
やっとまともな思考になってきたので、ゆりは森のそばに佇む小さな教会へと向かった。
ゆりの向かった教会は、いつも女学生たちがお祈りを捧げる立派な場所ではなく、誰もが忘れ去ったように森に残されたものであった。
誰がどうして建てたのか、そもそもいつから建っていたのか、全てが定かではないが、昔からこの学院を護るようにある。
女学生たちが集まる大きく壮麗な教会も好きであるが、ゆりはこの教会が一番好きであった。
ひび割れた白壁に這う蔦も枯れているし、教会の中に入るとどこかかび臭い。
だが、他の教会のなにより優っていたものは、祭壇を照らすステンドグラスであった。
薔薇が描かれたもの。
天使が描かれたもの。
マリア様が描かれたもの。
夕陽に照らされる美しさは、美術館に飾られているどんな芸術品にも劣らない。
その輝きを見てゆりはいつも心が穏やかになったし、神様をまた信じようとも思った。
だが、しかしもう限界である。
神様は私をお見捨てになったに違いない。
でも、もし、犬飼さんのような人がそばにいてくれたなら。
そう、もし、犬飼さんのような人とお話しができたなら。
でも、そう、犬飼さんのような人が…いいえ、犬飼さんが、もし、犬飼さんが、私を救ってくれたなら。
そう思ったところでゆりは首を振った。
犬飼さんはきっと天使だもの。
神様に見捨てられた自分の元に舞い降りるはずなんてない。
ゆりは目に涙を溜めながら、母から譲り受けたロザリオを握りしめた。
「でも、せめて。天使さまを見つめることだけはお赦しください。犬飼さんを見つめることだけはお赦しください。犬飼さんは、何もなくなった私の全て。」
それからというもの、ゆりはれいこを見つけるたびに密かな幸せを得ていた。
ゆりは幼い頃、庭に秘密の場所を作っていた。
そこに、今思うとガラクタとしかいいようのない宝物を隠したりして幸せな気持ちに浸っていたが、まさに今、れいこの周りがそれ。
れいこのことを私の宝物だと言わんばかりに、そっと見つめていた。
それだけがゆりの幸せの全て。
だが、ある日、その秘密の場所が見つかってしまった。
「早見さん、何をしているの?」
振り返るといつもゆりを無視しているクラスメイトの少女が三人。
いつも無視するというのに今回は、ゆりの行動を見逃してはくれなかった。
「まさか、犬飼さんのこと見ていたの?」
「まさかね。」
「特別なれいこ様をまさか覗き見していたのかしら。」
まさかまさかと笑われ、また実際そうなのだから、ゆりも弁明のしようがないし、やはり自分などがおこがましかったのだと震えながら下を向いていた。
「早見さんはお綺麗だから、いい気になっていたのかしら。」
「お綺麗だから!」
「私たちと違ってお綺麗だからね。」
神様はついぞ私をお見捨てになったのだわとゆりが相変わらず下を向いていると、声が聞こえた。
いつも遠くから聞きていたあの声。
「何をしているの?」
「犬飼さん…?」
そこにいたのは、あの犬飼れいこ。
険しくそれでも美しい顔で少女たちを睨みつけていた。
「私の前で無粋な言動はしないでちょうだい。気分が悪い。今すぐここから去りなさい。」
れいこがそう一喝すると、少女たちは逃げるように去っていった。
「馬鹿みたい。醜い集まり。私、汚いの嫌い。」
れいこは吐き捨てるように言うと、ゆりに手を差し伸べた。
その光景は、光に包まれた天使が道を示している宗教画そのもの。
「ごきげんよう、大丈夫?」
ゆりは差し伸べた手を取ろうとしたが、慌てて手を引っ込めた。
自分が手を伸ばすことで神聖な美しい絵を崩してしまうのではないかという恐怖心からかもしれない。
それに対してれいこは、私の手を拒むなどと言わんばかりにじろりとゆりを睨んだ。
天からの怒りのような視線に負けてゆりは目を逸らしたままで口を開く。
「あの…ありがとう。」
「私は、犬飼れいこ。中等部の一年生。」
「あ…その…知っているわ。有名だもの。あの…私は…。」
それを聞きいて、れいこは微笑んだ。
先ほどの冷たい顔と打って変わって、なんて輝きに満ちた美しい笑顔だろうか。
見惚れていると、れいこは驚きの言葉を発する。
「知っているわ。早見ゆりさんでしょう?」
「どうして、私の名前を?」
「だって貴女、綺麗ですもの。知っているわ。」
「綺麗…?」
れいこはゆりの顔の輪郭をなぞるようにゆっくり撫でた。
ゆりの顔の美しさを確かめるかのように撫でるのだ。
「綺麗。私、綺麗な子が好き。」
いきなり現れた天使にそんなことを言われゆりは驚いた。
あの犬飼さんが私のことを知っていただなんて。綺麗な子と。
でも、だけど。
「私、綺麗なんて嫌。本当に犬飼さんの言うことが正しくて、私が綺麗なら、きっと私は神様に嫌われているのだわ。そのせいでこんな目に合うのよ。全部そのせい!綺麗な子は嫌いなのよ。神様って。」
れいこはそれを聞いて首をかしげる。
そして、また頬を撫でた。
「おかしな子。それでは、貴女は綺麗な私が神様に嫌われているというの?」
「それは……。」
「世界で一番優れているものは綺麗な子。私は選ばれているの。神様に。そして貴女も選ばれているの。神様に。私に。だから醜いものは嫉妬するのだわ。私たちは、そんな輩に決して屈してはならないの。」
そう言うとれいこは再び手を差し伸べた。
「堂々となさい。だから妬まれるのよ。ねぇ、お友達になりましょう。あなた綺麗だから、なってあげる。」
何かと上から目線だが、れいこになら言われても腹など立つわけがない。
神様は私をお見捨てになんてなさらなかった!
「私もお友達になりたい。犬飼さんと。」
そして、ゆりは今度こそれいこの手を取ったのだった。
自分があれほど盲信していた神を憎もうとしていた時に現れ、救ってくれた。
まさしく、れいこは天使である。
天使に啓示を受けしものもまた、人ならざるや天使。
自分も神様に選ばれていたのだ。
その甘美なる悦びはゆりが初めて感じるもの。
ゆりは目に涙を溜めながられいこの手をぎゅと握った。
「嬉しい…私、お友達なんて初めてよ。それも、犬飼さん、貴女とだなんて!私、貴女とずっと一緒にいられますようにと神様にお祈りするわ!」
「ええ、私たちはずっと一緒。これから二人を誰もが羨むことでしょう。」
それから二人は一緒に同じ時間を過ごした。
最初こそ、ゆりは遠慮していたが、絵本を読んであげましょうとれいこが毎日のように誘っては読み聞かせてあげた。
こうすれば、ゆりももっと打ち解けてくれるのではないかという、れいこなりの配慮らしい。
そして、絵本を読むという行為は、れいこの中でなによりも尊い時間であったので、どうしても二人でその時間を共有したかったようだ。
ゆりは、れいこの近くに座って絵本を読んでもらっていたが、れいこの瞬きのたびに揺れる長いまつ毛や、本を読むたびにゆっくりと動く艶やかな唇ばかりを見ていたものだから、れいこに嗜められた。
「ゆりさんも一緒に参加なさいな。そうだわ、頁をめくるのを手伝ってちょうだい。」
れいこに近づくのも気が引けたので、遠くから一生懸命手を伸ばしていると、れいこに笑われた。
「馬鹿ね、とんだお間抜けさんだこと!そんなに遠くから頁をうまくめくれるはずがないじゃない。もう少しこちらにいらっしゃい。」
そう言われて、ゆりはれいこに無理やり引き寄せられた。
その時、風に乗って漂うれいこの薔薇の香りといったら。
いつもゆりの母親が、ドレッサーの前に香水瓶をたくさん飾っては選んでいたものだから、香水とは大人になってからつけるものとゆりは思っていた。
だからだろうか、れいこさんは私より何倍も大人で何倍も魅力的な女の子だわ、とゆりは感嘆したのだった。
その香りに包まれて、ゆりが頁をめぐっては、れいこが読む。
この繰り返しをしのリズムが心地よく、ゆりは徐々にれいことの距離を縮めていったのだった。
「私、れいこさんのお友達になったのね!」
ゆりは寮の部屋に帰ると、最近お気に入りの薔薇の花びらが入った紅茶を飲む。
そして、ふかふかのベッドに飛び込んでクッションに抱きついては夢み心地の毎日。
「れいこさんは、お部屋に帰ったら何をしているのかしら?御本を読んでいるのかしら、お紅茶を嗜んでいるのかしら?ねぇ、私、れいこさんとお友達なの!お友達なのよ!!」
そうして、ゆりの美しく輝きに満ちたり日々が始まりを告げた。
~後編へ続く~
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