一難さったことにして、また一興。

文章や書くことにたいするよくわからない拘りを発揮しているこのノート。いろいろ手を変え品を変えそれでも向き合い続けていて、自分で自分のことをほめてあげることができる。
最近文字制限すらとっぱらって、気ままにノートを更新している。
そういうものでいいと思う。絶対的な正解があるわけではない。
文章なんて自由なんだ!と気持ちのレベルでは、思考の世界ではそう思っているけれど、実際に書いてみると、なかなかそうもいかなくて面白い。

実際に書いてみると、多かれ少なかれ自分が言いたいことというのが見えてくる。具体化してくる。書く前はいろいろなことを雑多に考えたり考えてなかったりしているのだけれど、つまり自由な感じなんだけれど、そこに血と肉を授けてやると、どうにもぶきっちょになってしまった文体が現れる。
それは人から見ると(そして時間をおいて自分で眺めてみても)粗が目立つし、恥ずかしさのようなものを感じさせる。しかしそれは、その人が見ているのは、また雑多な世界だから有利なだけである。ためしにその人に筆を執らせてみるといい。また別のアラが現れてくる。良い出汁がとれそうである。

どうにも失敗というものや批判というものを僕たちは恐れてしまうようにプログラムされている気がする。人よりも大きく失敗してきたので、あれにくらべると、という発想ができる僕ですら、失敗をしたくないなぁと感覚的に思う。失敗は成功の母とはいえ、毎回母に出てきてもらうわけにもいかないし、そこまで僕たちは成功というようなものを求めているわけでもなさそうなのである。難儀である。
しゃっしゃと書いてしまって、しまいにしていく。そういう感じで文章と付き合っていきたい。書いた内容だけにこだわるのではなく、書いたという事実であったり、書き方(何でどう書いたか、どこで書いたか、書いてみて自分はどう感じたか…etc)
先は長いし、焦っても好転しない、ということは、具体的にわかってきている。

英語に関しても最近振り返ることがある。一時期狂ったように音読をしていた。音読とか多読がどれほどの効果があるのかは、諸説あるっぽいので、あまりどうこういうつもりはない。でも、実際に勉強してきたぜ、というのは、自分を支えてくれる経験の一つではある。こんなに勉強したのに〇〇ができない、とかそういうクリシェを繰り返すよりは、こんなに勉強できた自分を誇ってみたらいい。

結局積読も積みゲーも増えるいっぽいであるが、なんだが気持ちが軽い。
文章はシンプルに。メモは複雑に、というような原則が少しわかってきた。
メモは文章である必要はない。読み返す前提ですらない。書いていて書き間違うことすらメモは許容してくれる。
これはメモではなくノートなので、文章ベースで書いている。それもまた一興。

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