おもしろいことっていうのが第一の価値観で生きていくのは少し苦しいのだろうけれど。

最近あまり本を読めていないので、この八月はここを使って読んだ本のブックレビューをしていく、という流れにしていく。
そうすれば、noteもしれっと更新ができて、本を読んだ気に自分がなれるので一石三鳥といったところ。

メモを最近かいているけれど、そのメモを見返すタイミングというのがない。
ざっくりと書きすぎているからかもしれない。

現代思想入門を読み進めている。
1回途中で挫折というか読むのをやめていたので、読み直しである。
そこまで徹底的に読んでいない(徹底的に読めている・読めていないという二項対立に対して、脱構築を差し向けているのだ、と考えることができるのはこの本を少しでも読んでいるからかもしれない)
一応今はこうなってますけど、固定することは無理で、どんどん変化していきますんで、よろ。みたいなスタンスだと思っている。内容的には。
とてもいい考え方だと思う。
うまくいかないことがあったとして、それに拘泥することを防いでくれる。うまくいかないこと、で完結しているわけではなく、それでも町は回っており、自分自身も腹は減るし汗はかくし、嫌なことをしてしまったりそういう後悔にさいなまれたりする。
すべてが変化の途中であって、それゆえに寛容ということもまた見出せる。相手を罰せなければ気が済まないタイプの人間は、このような時間のとらえ方ができていないのかもしれない。確定された時間の中で僕たちが生きているのではなく、よくわからない混然一体とした世界のなかで、僕たちはたゆたっている。
絶望しきることが結構難しい。変化していくし、絶対の基準のようなものがうっすらとは見えるけれど、それだけではない、逃げ場のような差異を際限なく発見することが理論上できてしまう。
そこで必要なのがしがらみというか身体性地域性限界のようなもの、有限性である。とはいえ、僕たち死んでしまいますよね。とはいえ、とりかえしのつかないことというのが世の中に存在していますよね。
ここにどう落とし前というか、線引きを引くのかということが求められていくのではないだろうか。
脱構築や差異といったことで、一時は現実逃避ができるか。

としゃらくさいことをつぶやいた。

鈴木福君の徹子の部屋をみた。
あんまりかわいくなかった。小さいときはころころしていてかわいかったけれど、高校3年生の彼からはあまりオーラのようなものを感じなかった。声の印象が大きいのだろうか、三十路を超えた僕の声よりも低い感じだった。しかし顔はまだ幼い福君のままだったのでなにか違和感のような、居心地の悪さを感じた。彼自身が何か答えているけれど、聞きごたえもなく、知りたいとも思わない感じだった。魅力のようなものを感じなかった。


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