上司という存在が腹立たしいのは理由がある
リサイクルショップよろず屋いちばんができて、3ヵ月以上たちました。月日の流れは早いですね。
3ヵ月を振り返ってみると結構大変でした。「みんなで働くのって大変なんだな」というのが率直な感想です。
では、何によって大変になっているのか。いくつかの要因があるかと思いますが、恐らくそのひとつはこういうことかなと思います。具体例を出しつつ説明します。
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直接の知り合いは知っているかと思いますが、私(菅谷)はかなり適当な人間です。商品については一定の気を遣いますが、バックヤードにもなると話は違います。
開業当初は、食べた皿は洗わずそのまま、飲んだペットボトルも放置することもしばしばでした(最近はかなり気を付けています)。皿は溜まってから洗えばいいし、空のペットボトルも一定の量になってからまとめて捨てればいいじゃんと思ってしまうんですね。
当然ながらお店を経営する上で、流しには洗っていない皿はない方が良いです。ペットボトルだってない方が良い。前提として、私の悪癖は直した方がよいでしょう。
さて、このような私のズボラなところを仲間は「直してほしい」と指摘することができます。しかし、指摘しないこともできてしまいます。誰も問題を指摘する義務を負っていないからです。
指摘しない場合は、問題は問題のままに残り続けるか、私ではない誰かが我慢しつつ片づけることを強いられます。
また指摘する場合も、なかなか大変です。
誰かが「食器を洗って欲しい」と私に指摘したとします。もしかしたら私は「その指摘は妥当ではない」と小理屈をこねて反論するかもしれません。対等な関係性が前提にあるので指摘に対して「はい、わかりました」と素直に従うとは限らないのです。
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具体例を出しましたが、ここに協働労働の難しさのひとつが凝縮されています。(私たちの場合は)個々の自由度がとても高く、上下関係も曖昧です。
例えば同じ事例を会社に置き換えるとどうでしょうか。
私が食べたままの食器と飲み干したペットボトルで職場の洗い場をぐしゃぐしゃにしたとします。
恐らく私は自分よりも上の立場の人に怒られることになります。そして怒られたことに不満があったとしても、よほど譲れない局面でなければ私も聞き入れます。なぜなら自分よりも立場が上の人からの指導だからです。
また、そもそもにおいて、仮に私が会社務めをしていた場合は食器もペットボトルも放置しない可能性があります。「さすがに片づけた方がいいだろう」と、自分の行動に一定のブレーキがかかるかもしれません。
このように、会社の場合は個々の自由や裁量が制限されています。
そして、その制限を超えてしまったり制限内でも問題が生じれば上の立場の人に嗜められます。立場が上の人は自分よりも下の人を指導することも仕事に含まれています。部下も「自分よりも立場が上だから聞いとくか」と思うことがしばしばです。
こういった仕組みを考えると、会社ってよくできているなと思います。
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会社はよくできています。では、なぜ私たちは協働労働において会社的な仕組みを導入しないのでしょうか。効率だけで見れば誰か適任者を上に立てて、その人の指導で回した方が上手くいく可能性はあります。
会社的な仕組みに思い切り舵を切らない理由は、この取り組みの重要な根幹を壊滅させてしまう可能性を孕んでいると各々が直感しているからだと思います。つまり、私たちの仕事における楽しみや幸せを潰してしまう可能性があるのです。
私たちの試み、もしくは協働労働そのものが効率面だけで見ると非効率な面を多々あるのは間違いないでしょう。しかし、当然ながら効率や生産性の向上を追求し続けることが、楽しく幸せかというと必ずしもそうではありません。
会社のような働き方がマッチする人は会社で働くのがもちろんよいと思います。しかし、別の働き方の方がキラリと輝く人、幸せを見出せる人も少なからずいるはずです。協働労働の試みの意義はそういった面でもあるのではないかと私は思っています。
文責 菅谷圭祐
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