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【演劇】||||°C°|L|L

掲載が許可されました。演劇作品『||||°C°|L|L』の戯曲データになります。映像か脚本のどちらかだけでも見ていただけたら、泣いて喜びます。

劇団しろちゃん2022冬私演『||||°C°|L|L』

所属サークルの公式youtubeにて、脚本演出を担当した演劇作品『||||°C°|L|L[しどどるる]』が公開されました。

このタイトルは、我ながら誇らしいものではありますが、記号なので、より一層フォントの影響を受けるのが難しいところですね。ブラウザ版noteの記事タイトルフォントには合わなかったみたいです。役に立つかは分かりませんが、「℃」+「°」ではなく、「°」+「C」+「°」と入力すると、フォントに関わらずバランスが良くなります。

いつもサークルのブログでは格好つけたことばかり言っていて、それもお気に入りではあったのですが、今回は創作スイッチが入って、『パンティパンダのパンティライン』とかいう短編+ウミガメのスープを作ってしまいました。衝動的に始めた割には、途中から飽きてしまい、あまり気に入っていなかったので、最近まで存在を忘れていました。

そんなわけで、いつもよりは真面目なブログをこっそり書こうと思います。


はじめ

『||||°C°|L|L』は、僕にとって初めての長編作品でした。作品という垣根は曖昧ですが、文章やブログを含めても、2万6千文字(うち千字程度はト書きでしょうか)のお話は、兎にも角にも初めてでした。

はっきり言えば、実験的な作品でした。それは、いつも通りのことでした。自分が出来ることを最大限実現したところで、自分のアタマからは飛び出せませんので、毎度劇作をする時は、短編であれば、アタマの中で演出を9割方完成させ、稽古で思いついたことや役者から出たプランを採用し、体感5割以上を作り直すようにしていました。

しかし、今回は長編です。サークルの先輩に相談したところ、

「長編は、時間だけみれば短編3、4本分の長さだけれど、内容は5、6本分のボリュームがないといけない」

と言われ、

「やりてえ~~~」

となりました。当然、稽古開始前に脚本が書きあがる気配はなく、これは短編の時もそうでしたが、それならいっそ演出も固めずに稽古してみようと思い立ち、完全にフラットな状態で脚本だけを書き始めました。

メリットを大いに上回るデメリットがついてきましたが、それは違うところに書きます。

方針を決めたはいいが、人事、脚本の両方が宙ぶらりんになってしまいそうだったので、まずは脚本の大枠を固めることにしました。この段階はプレゼンの前段階です。我がサークルはプレゼン形式で公演タイトルを決定します。プレゼンを通すために、「物語の設定」と「やりがい」を提示しようということは、既に決めていました。その両者を用意するために、まずは脚本を書き始められる状態にしようとしました。

僕の弱い弱い記憶を辿っているだけですが、タイトルもプロットもほとんど決まっていなかったと思います。プロットなんかは、本当に

主人公、変な人に絡まれる
親友、助けに来る
○○コント
気付かないうちに変な人がまたいる
○○コント
主人公、一人になる

とか、そのくらいでした。用意したいプレゼン材料の前に、導入と事件とオチ、加えてタイトルが決まらないと、そもそも脚本に手が付けられない人間なので、あじゃぱ~という感じでした。

いつも内容とタイトルを同時に相互にゆっくり変えていましたが、今回は、いつもみたいにフワフワしたままだと瓦解するだろうと思い、太めの芯を用意しようとタイトルだけを先に決めることとしました。プロットとタイトルを同時に考えるのではなく、タイトルを決めるためにプロットを考えました。

タイトル

タイトルだけを決めるのは初めてで、一週間かかりました。当初、いくつかテーマがあったので、それを元に思いついた端から羅列し、こねくり回していきました。見返してみると面白かったので、いくつか載せておきます。

明ノ他人
ぬるめのふし°と
ぱれるら
臥し奴
とこねこと
Wh°C°C

ねぐしどど
しド℃のをん奴
Wh°C°D°
VVIn°C°C°
ΛΛμ°C°C°
©°C°
IV°Ↄ°

時系列はぐちゃぐちゃだと思います。前半は「ふしど」を中心に、後半は「しどど」という造語を中心に考えていたみたいです。この言葉は「しとど」の派生形としています。副詞です。意味は「ぬるぬるしたさま」とか、そんなところです。「しとど」より粘性がある感じです。役者には、ドロッと汗だくになって欲しい、となんとなく思っていたので、そうした言葉を考えてみたところ、語感も好みで気に入りました。

プロットを考えている時は、舞台上でゴロゴロしたいな~と思っていましたが、タイトルを考えているうちに、あまり関係なくなっていました。当初考えていたことから違う形になると、確かに思考出来ていると思えて、安心します。

これを土台として、宣伝美術の後輩に付き合ってもらい、僕の散らばりつつ煮詰まったアイデアをただ話し続け、「これどう?」「ああいいですね」「こっちはどう?」「う~ん」とかなんとか、僕が考えを整理していく一時間がありました。

その中で、本編冒頭にも出てくる「るるるるる」の短歌をふと思い出しました。僕が2年くらい前に詠んだ短歌です。この頃はノリノリでした。最近はあまり詠んでいないこともありますが、なかなかこいつらを越えられていません。

これを見習って、せっかく副詞の造語を作ったし、動詞形も作っちゃおう、と思い、「しどどるる」という言葉が生まれました。

しどどろる
しどどうヒト
しどどるるヒト
しどどどるヒト
しどどろうヒト

当初は、ひらがな、カタカタ、記号を混ぜて、かわいいと気持ち悪いを両立させたかったのですが、どれも中途半端でした。その中で共通していたのは、二人して「°C°(どど)」が「かわいい!」となったこと。それを受けて、全部記号にしてみようと思ってからは早かったです。早かったし、「これしかねえ」とさえ思っていましたが、「||||°C°|L|L」が出来てからも、数十分は迷っていたわけで、どれだけ満足出来ても、何かを決めるのは難しいですね。

脚本

タイトルの記号化を受けて、言葉と記号という関係性からコンセプトが固まり、プロットが圧倒的に考えやすくなりました。集中してタイトルを考えた時間は、悪くない時間だったのだろうと思えます。

後から崩していくのはあまりに無謀なので、プロットは丁寧に考えましたが、演出のために脚本を書いていた僕にとって、初めてのことばかりでした。主人公の感情や行動の運びはすぐに決まりましたが、そこまでの流れを作るのに手間取りました。結局のところ、演出のための脚本を書いてしまっていましたが、いつも以上に余白を残すことを意識しました。おかげで、生まれた数と同じだけ消えていった演出があり、壊すことに対する慣れを実感しました。

流れを決める上で一番難しかったのは、やはり出役のバランスでしょうか。主人公はみんなにいいように遊ばれたり、基本受け身でツッコミなので、終始出突っ張りでも、許容範囲だろうとあまり気にしていませんでした。あと、役者は大変であればあるほど、面白くできる余地が生まれるとも思っていました。

僕は死に役が大嫌いで、最優先で忌避したいものです。見る側だとしても、どこかで寂しい気持ちになります。せっかく出るならみんな魅力的にしたい。そんな風に思っていたら、一人多役を前提として、各キャラクターにまつわる短編集的構造がしっくりきました。

その上でいくつか仕掛けは用意したり、シンプルでブツ切りにならないように心掛けましたが、それ以前に、どうしても長くなってしまいました。70分を理想としていましたが、90分を超えてしまいました。作品強度と密度と技術と、演劇作品はバランスが難しいですね。


少し脱線して、本編を動画として残した経緯について。これはタイトルを決める前から決めていたことでした。以降は違うところにも書く予定の文章です。

今の時代、作品をネット上に残さない理由は、特異なポリシーを除いて、ないと思います。劇団しろちゃんを知ってもらい、より好きになってもらうためのコンテンツとして、ラジオドラマやその他公演に関わる動画やブログはありますが、劇団たる所以の「演劇」が圧倒的に少ない。その演劇を見れるのは、年3回たった数日です。歴史は長いのに、もったいないと思います。我々はインターネットに対する在り方をこれでもかというほど享受しているはずです。時代と文化を諦める理由もない。

やってこなかった、できなかった理由のひとつは、労力を割けなかったことでしょう。自分や団員を擁護する意味合いもありますが、仕方がないと思います。お芝居を作るだけでも精一杯で、真摯で、愛情たっぷりで素敵な愛すべきサークルです。なので、それ以上を考えるのは、これからでいい。

著作権など、インターネットはまだまだ整備されておらず、グレーどころかブラックながらも甘々でコーヒ牛乳的現代ですが、考え続けていれば、悪いようにはならないはずです。

今回は音響班の意向もあり、劇中の音源を著作権フリー、自作で統一することとしました。そうでなくとも、僕は公演後、問題が起きないように、自費であろうと整えて、上演から半年後に動画をアップしようとしていました。

例えば、有料配信があって、「そのうち無料で見られるなら、お客さんは来なくなる」と皆が思い至りますが、あまり大きな問題ではないと思います。演劇は、見ること自体が大変だから。

そもそも演劇自体、他の芸術に比べて、その面白さを作るために観客の協力がかなり必要な形態だと思います。この日に観劇すると自分で決めて、自分で劇場に足を運び、場内へと足を進め、舞台を一目見て、これから起きることを少しずつ想像していく。面白くみようとするからこそ面白くなる部分が大いにある。だからわざわざ劇場に行くと面白いし、配信期間に期待して見るから面白い。

この無料配信とそれらは、別物です。目的が違います。映画やドラマを配信サービスで漁るように、「見てみようかな」と思い至る先としてのコンテンツです。それはいつでもどこでも見れるからこそ、見るまでのハードルが高い。しかし、あるとないとでは大きく違う。最近は、prime videoも半年に1,2本の映画しか見ていません。そういう人は多いと思います。

演劇だし、映像でみると、カメラがスイッチしてくれたりしないと、集中できないと思います。今回は急遽規模を縮小したので、予定と違い定点となりました。動画を見返してみると、正直、僕自身あまり集中できませんでした。男が一人ケタケタ笑ってるし。誰だよこいつ。過去の公演で3台のカメラを用いたことがありましたが、見飽きるということはありませんでした。違った体験になるでしょうが、しかし、残さないよりは遥かにいいだろうと思えます。何も無いのでは寂しいばかりです。

とまあ、そんなことを考えていたので、僕としては、それが少しばかり早くなっただけでした。このことは、団員に向けて特に伝えていなかった気がします。

脚本だけで、精一杯だったので。


キャラクター

キャラクターごとの短編ですが、キャラクターの設定を考えてからそれぞれの短編を作ったのか、短編でやりたいコントやお話を考えてからキャラクターの設定が固まっていったのか、あまり覚えていません。いつも通りなら同時進行で互いに影響し合って、収まるところに収まるのですが、今回はキャラクターを先に決めたような気がします。初めてのことで、手探りでしかなく、経過を反芻して定着させることは叶わず、当然覚えていないのだと思います。

最近、ことあるごとに「記憶が弱い」と口に出すようになったので、言わないようにしています。記憶が弱いことは、大した問題でないと思えるので。

え?

先にキャラクターを決めましたが、正直、やりたくない作業でした。ストーリーを書いていくうちに、キャラクターの背景が深掘りされていって、その他の部分も並行して変わっていくサマが好きなのですが、こうしてキャラクターの背景を先んじて固めてしまうと、そこが土台になってしまって、ザブングル加藤ってしまうと感じていたためです。

作為的と言ってしまえば、創作物は全て作為的と言えてしまえるけれど、その量を極端に減らしたい。流動的で掴みどころがなく、しかしドロっと粘り気のある気持ち悪くて愛おしい作品が大好物なのです。

結局、稽古の様子や改稿の激しさを思い返せば、その理想と初めての手法とのバランスが上手く取れないのを感じながら、それなりに心地よく苦しんでいたと思います。総じて、楽しい時間でありました。

稽古

稽古も色々ありましたが、初めての経験がひとつありました。
演出、演技プランがまったく出てこなかった日がありました。

あまりに頭が回らなくて、驚愕しました。

「今日の俺マジでヤバイ。最悪だ。ごめん。ぬわああああん」

としっかり吐き出したのを覚えています。抱え込むことはあまりないので、その心配はしていませんでしたが、脚本やらその他のタスクでシンプルにストレスがあったのだと思います。後にも先にも、そんなことになったのは、その日だけでした。新鮮で苦しかったです。

一番難しかったのは、稽古日程を決めることですね。これはいつも通りでした。来れる役者やら、少ししか出ない役者やら、兼ね合いを考えるのが大変でした。今回は、全シーンにほぼ全キャラ出るわけですし。そして、それを人に任せることが出来ませんでしたね。おかげで、数回、無駄に役者を居残らせてしまう日がありました。稽古疲れ以外の疲れは不快ですから、まことにメンゴです。

しかし、それ以外のことはスタッフに大いに助けてもらいました。有能なヒトビトがたくさんいるので、稽古だけやっていればよくて、もうハピハピでした。

とにかくケタケタ笑っていた気がします。淡々としていて、よく怖がられる私ですが、やはりゲラであり、こと稽古においては、そのボリュームが一段階上がって、うるせえ! その現場がどういう現場だったかは、大抵終わった後に客観視して実感することがほとんどですが、当時はリアルタイムに稽古だけ出来て最高に楽しい、と感じていました。スタッフに助けられていたことが肌身に感じられていました。

「笑いの感性は合わない」と言われることが多い。大爆笑している時、響くのは僕一人の声です。もしかしたら、うるさすぎて掻き消しているだけかもしれません。おそらくは、爆笑していることに周りの人間が引いているのでしょう。たまに誰かが笑ってくれると、それを見てもっと可笑しく感じてしまいます。

これはコントに限らず、シリアスっぽいシーンでも変わりません。爆笑はしませんが、「いいねい」とか「やっばあ!」とか、彼らが演技をしているのに、声を出すことも多々あります。役者に変化を気づかせるなど、意図的であることがほとんどですが、たまに素で興奮して、逆に演技を見ていなかったりします。

解釈の姿勢も含めて、考えてみると、僕は、本当に雑です。私は気楽と本気は両立出来ると思っていますが、大多数はそう思ってはいないのだろうと今回実感しました。そういうマインドの部分に気づいたのは、かなり後のことでした。思考の言語化は意識していましたが、気づけていないものはどうにもなりません。問題に気づくための言語化でもありましたが、決して得意ではないのだと改めて実感しました。心地よい環境づくりを意識していましたが、ともすれば危うい現場になっていたのかもしれません。岡目八目だったら嫌じゃあ。しかし、気づいてないうちは大丈夫です。ギリ田、ギリギリセーフです。ギリギリセーフ音頭以降、ギリ田やんなくなっちゃいましたね。とはいえ、力身力に比べると、見劣りしていたのも確かです。

それとは関係なく、大きな座組となると、なかなか関わりが薄くなって、お話しできなくて、寂しいですね。感染対策も相まって、稽古中に話しかける人間が少なかったのも寂しかった。けど、最高に楽しかった。毎回転げまわって笑っていた気がします。怖いよ。

楽しいというほどに、語るに落ちる、というか、語るに剥がれる、という感じがしますが、しかし、赤裸々に残すことも僕にとっては大切なことです。

このnoteについて

ここまで赤裸々に、タイトルの廃案や嘘っぽくも見えそうな感情まで書くのは、やはり僕の記憶が弱いのが大きな理由です。特別、診断とかはされていません。僕がそう思うだけです。家系的にもそうだし、人より人の顔や名前を忘れてしまう。思い出その他も同様です。

「覚えられない」のではなく、「忘れてしまう」のです。

忘れっぽいことに関して、他人に興味がないからだと痛く割り切っていた時期もありましたが、惜しむらくは、と思えるようになったので、恥ずかし気もなく書きふらしているというわけです。

誰かに見て欲しいという下心は大いにありますが、それと同じくらい僕が私自身を楽しみたい感情もあります。僕は愛すべき人に、今後多少なり退屈かもしれない人生において、僕自身の人生を面白がって欲しいと思っています。包み隠さず野心家であります。しかし、僕が出ていないと見てくれないそうなので、次は出役で何かしたいですね。

今回、脚本の内容だとか狙いだとか、そうした深掘りはしませんでしたが、今後も何かあれば、その時はやると思います。

余白をあまりにも広く作って、解釈の余地を面白さとする僕ですが、反面、ひとつの答えを知ること、それこそを面白さとする人間もいると納得しています。その人間を「演劇を見る目がない」とか「思考停止している」とか、そんな風に言う人がいるかはわかりませんし、いたところでどうでもいいですが、一刀両断してはいけません。そういう人間もいると期待して、そこに違う面白さがあるなら、その余地も残すべきだと思います。

当然、良いように言っているだけです。僕の考えを残して、私が楽しみたいだけです。それでも、いいように言います。その言いようを認めて、一度受け入れて、それを捨てるか拾うかは、そこから考えればいい。ものは全て、主観で、見ようで、言いようです。それがないと面白くありません。

それより、そんなことより、いつしかエピソードトークをする時に、忘れていては勿体ないのです。思い出も、稽古期間中の思考も、全て僕の無形資産です。公演が中止になって、無理やり上演したことも、脚本が3割しか出来ていないのにオーディションしたことも、途中から脚本に飽きていたことも、稽古終盤で鳥肌の立つアイデアが浮かんだことも、飽きていたのに完成品を見て楽しくてたまらなかったことも、愛すべき団員と活動出来たことも、愛で満たされていたことも、全ては僕のもので、僕はそれを私のために残さなければなりません。

そう思えば、記憶の弱さも愛おしい。

言葉だけが思考を確かにしてくれる。


私は今、少し私を諦めて、もう少しあとの私に託すことにしました。

諦め癖は相変わらずで、これを愛すわけにはいきませんが、しかし、殺したくもありません。僕自身を守るための手段として、これを以て、何度か助けられた気がしています。誰かに聞いたわけではありません。もしかすると、ただの怠慢だったのかもしれません。でも、それだとなんだか、あっけないので、ここは贅沢に、愛すべき僕を守れたことにしておきます。

可愛げがあると尚よいのですが、

どれもこれも「愛す可き」ものだと思えるので、

どう見たって、可愛げあり!



お気持頂戴