落語「判子」

 蛤は桑名、鮪は大間といった具合でなんにでも名産地というものがあるが山梨の六郷というところは判子の製造で有名だった。
その中でも東海林判子店という店はこの店にない判子はない、という評判でそれは東京の街にも届くほどだった。
「おう将太、お前あの噂を知ってるか?」
「大家さんじゃないか、噂ってなんの噂だい?」
「判子屋だよ、おめーさん判子作りたいって言ってたじゃないか」
「そりゃ作りたいが俺の名字が珍しすぎてどこにも売ってねーんだからしょうがねぇ、何か所も評判の判子屋へ行ったが結局なしのつぶてよ」
「それがその判子屋には古今東西あらゆる名字の判子屋があるらしいんだよ」
「そんなに評判ならいっちょ観光がてら行ってみるか」

そんなわけで将太は六郷の町へと行ってみることにした。
汽車に揺られ数時間、さらに何時間か歩いて着いたそこはまさに辺鄙な片田舎といった具合で、生まれも育ちも東京の将太は既に辟易としていた。

「なんだいここは、せっかくの新潟だってのに海も遠いじゃねぇか、さっさと噂の判子屋に行って東京に帰るとしよう。
どれどれ…ここか?
なんだ、ひどくぼろっちいじゃねぇか、東京の判子屋のが数倍綺麗で立派だったがな。この様子じゃ俺の名字の判子はないだろうがここまで来てとんぼ返りする手もねぇ、ちょと覗いてやろうじゃないか」
そうして軋む戸を開けてみるとそれはそれは大量の判子判子判子
上から下まできちっとはまった棚にぎっしりと判子が詰まっていた。
それが見渡す限り延々と並んでおり、なぜか外見よりも店内は広く見えるようだった。

「なんでい、大したもんじゃねーか、店主はどこだ?
おーい、おーい!」
「なんだ客か、こっちだこっち」

将太が判子の棚をすり抜け奥へ奥へと進んでいくと作業台に座った小さな禿頭の老人がいた。小さな丸い眼鏡をかけ、すっかり白くなったひげを胸の下まで蓄えた老人は何やら超然とした雰囲気を身にまとっていた。

「おう、判子が欲しいんだがあるか?」
「そりゃ判子屋に来る奴は判子が欲しいに決まっちょるわい、なんて判子が欲しいんじゃ」
「今のところどこにもない珍しい名字でね…」
「御託はいいからさっさと言いなされ」
「漢字一文字で大だよ、大将の大さ、さてあるかね」
「あるよ」

そう言うと店主は何やら近くの棚をごそごそとし判子を2、3取り出した。
「これが象牙でこっちが水牛、こっちが本柘ね」

なんでもない風に出された将太はなんだか馬鹿にされたような気分になってきていた。なので少し意地悪してやろうと考えた。

「なかなか品ぞろえがいいみたいだな、ついでにいとこのも頼んでいいかい?」
「そりゃ商売だから売れれば売れるだけいいわな、なんて判子だい?」
「実はいとこは中国人でね、諸葛って判子はあるかい?」
「あるよー」
またも老人は足元をがさごそやると判子を出してきた。
「ずいぶん前に1個売れたきりでね、買ってもらえて助かるよ」
こうなってくると将太はもう悔しくて堪らない

(こうなってくるともう無いといわせるまでは帰らんぞ)

そんな意地を張ってしまうのでした。

「この前うちに下宿に新しい奴が入ってきてそいつも判子をくれてやりたいんだが」
「で、名字は?」
「えーと…ジョン・スミスだ」
「なんだい外人さんだったのかい、でもまああるよ、スミスでいいんだろう」
そういうとやはり何処からか判子を出してくるのだった。
こうなってくるともう止まれない

「金長はあるかい」
「百年前に作ったのがあるよ」
「豊臣はどうだい」
「昔はいっぱい売れたからね、残ってるのがあるよ」
「じゃあキリストはどうだ!」
「あるよ、2000年前に一個売れた」
「まさか釈迦ってのも…」
「仏陀も牟尼もガウタマ・シッダールタもあるよ全部買ってくかい?」

もはやこの店主が妖怪変化の類なのは疑いようがなかったが、それよりも彼の力量に感服するよかなかった。

「いやはや参ったよ、今まで行ったのは全部買っていくから最後に作ったことない判子を教えてくれ」
「そうだな…まあ売れない判子は作らないからね。有名どころだと閻魔さんのは作ったことないな」
「それはまたどうしてだい」
「地獄に、かみは無いからね」
そういうと店主は自分の禿げ頭をぴしゃりと叩いて笑うのだった。

お後がよろしいようで

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?