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六月一七日、憂鬱な日

 不意に、心の引き出しの奥に詰め込んでいたはずの辛い記憶が次々と迫ってきて、生きていることが億劫に感じられた。明日も明後日もその次の日も、いつまでも居座り続ける憂鬱に惑わされて、それをなんとか誤魔化しながら、ただ流されていくだけの日々が馬鹿馬鹿しく感じた。
 それでも、横柄な憂鬱を抱えながら、これまで私が生きてこられたのは「本」のお陰だった。たとえそれが、一時的な憂鬱の誤魔化しだったとしても、「本」は私にとって生きる糧だった。この日も、それに縋りたくなって、書店まで行こうと思った。
 自宅を出ると、街には既に、夕方の気配が潜んでいた。どこまでも等間隔で並ぶ街灯、それを車が絶え間なく通り過ぎる。制服姿の女子高生は、風に揺られながら、自転車を漕いでいた。
 学校や仕事など、日々の義務の消化から退くように帰りを急ぐ人々を見ると、なんだか心が締め付けられるように苦しかった。多忙から一歩退いた夕暮れは、否応無しに自分と向き合わされる瞬間で、空が徐々に暗くなっていくのも相まって、自分の気持ちも沈みやすいのだと思う。そんなことを考えながら、私自身も車に乗り、書店まで走った。
 書店に入ると、平日の割に人は多いと感じた。でも、その時の私には、入店してくる客は皆、無理に本を探しているように見えてならなかった。皆、一冊一冊を重たそうに手に取り、元ある場所に諦めたように戻しているように見えた。
 皆、この「夕暮れ」によって動かされた被害者なのだと思った。自分と対峙させられるこの時間帯が怖くて、物語に逃避してしまいたい。だけど、そんな自分を救ってくれるものは何も見つけられなくて、憂鬱になっているのだと思った。
 私も本を探した。全ての棚を、かなり長い時間をかけて見つめて歩いた。だけど、どれだけ探し歩いても、この時は、何一つ手に取るものが見つからなかった。
 全ての本が「俺を信じろ」と迫ってくるような、圧を感じていた。その一冊一冊の無遠慮さに気が滅入った。普段は、何かある度に本を読み漁っている自分が、それにすら浸れないほど、落ち込んでいるという事実に、更に気が沈んだ。
 こうして何も選べないまま、書店に篭って二時間ほど経った時、その書店の片隅で、タロット占いをしている人の姿を見た。店名と「タロット占い」の文字、開催時間が記載された看板も、同時に目に入る。
 やってもらおうかな、と思った。
 占いこそ「俺を信じろ」の典型だけども、自分自身が占いに対して、あまり期待を抱いた事がないのもあり、当たっても当たらなくても、大きく気が滅入ってしまう事はないだろうと思った。
 順番を待ち、席に着くと、占い師から簡単に説明を受け、その後、何について占って欲しいのかを聞かれた。
「憂鬱な感情や人からの悪意に耐えるのが辛い。どうしたらそれが和らぐのか」
「私にとって本を読むこと、作品を書くことは、精神の幸福に繋がっているのか」
 ということをあげた。
 占い師はタロットカードを広げ、私に一枚選ばせた後、他二枚のカードを自分で抜き取り並べて、
「この三つのカードの中から、好きなのを選んでください。最初に貴方が選んだカードでも良いですし、その他二枚のカードから選んでも構いません」
 と言った。
 私は迷ったが、最初に自分が選んだカードではなく、占い師が抜き取って並べたカードの一枚を選択した。
 占い師は言った。
「最初に自分が選んだカードを、もう一度選ばなかった貴方は、『良い意味では協調性があり、悪い意味では流されやすい』です。ですが、貴方が今選んだカードの意味は、正反対なのです。このカードは『自分の芯を曲げず努力している姿』を象徴している。貴方は今、物凄く葛藤しているのだと思います。自分の打たれ弱い性格に鞭を打ち、ここまでやってきたのだと思います。カードを選ぶときも、かなり迷われていました」
「これまでの人生、きつい言葉が飛び交う環境で良くやってきました。他者から貴方に投げつけられる感情と、貴方が吐き出す感情の量には、かなりの差があります。もっと周囲に投げ出す形でも良いから吐き出して、引き篭もってばかりいないで人も関わってください」
  抽象的だな、と最初は半信半疑で聞いていた。けれど、途中から核心を突いてきているような感じがして、「自分を理解してくれた」という安堵を覚えた。
 占い師は「占いを当てる」というよりも、「対象者がかけられたい言葉を相手の反応を確認しながら言い当てるプロ」なのかもしれない、とも思った。まあ、そういう言い方は占い師的にはあまり嬉しくはないのかもしれないけれど、人に与えられるものが癒しや救いなら、単なる能力よりも、素晴らしいと思った。
 しかし、私の心が安らぐのはここまでだった。
「小説を書くのは向いてます。ですが、貴方の精神の幸福には良いとは言えないです。自分の感情を頼りに作品に没入していく貴方は、その作品の世界に入り込んだまま、戻ってこれない感覚になるからです。本来なら、もうこれ以上何も考えないように、生活をする方が良いと思います」
 私は聞くのが苦しくなって、それ以上、占ってもらうのをやめてもらうようにお願いした。

 今、長編小説を書き進めている。
 人間や社会の暗い部分、その中で生きる個人の圧倒的な憂鬱とささやかな抵抗を書きたいと思っている。
 それが完成した時、私にはきっと、喜びが待っている。これまでも、そうだった。
 しかし、そもそも私と同じ二十代の知人の中には、誰一人として毎日のように文字を浴び、小説を書いている人はいない。自分が不幸な人間だとは思わないが、周囲からずれている自分に対して、ときどき「文学という世界に没頭し精神の安定を求めようと思わないほど、太陽のように明るくて健康的な人間であったのなら、もっと生きることが楽だったのではないか」と比較してしまう。それでも、今のままで良いとは思っている。他にやりたいことも、あまりない。
 だけど、たとえ素晴らしいと思える作品を書けたとしても、幸せには辿り着けないだろうと思う時はある。自分が真剣に書けば書くほど、その作品に自分で足を取られ、憂鬱を補強させてしまう気がする。
 これまで辛い事があった時「作品にしてしまえ」という気持ちで、耐え忍んできた。でも、その「作品にしてしまえ」が、後戻りの出来ないところまで、私を導いてしまう。
 文章教室で、このような作品を発表するのは、かなり軽率なことだと思う。このような場で、本を読み、作品を書くことを、終始後ろ向きに捉えて書くべきではなかった。
 だけど、白い原稿用紙には、魔力が潜んでいる。言葉を織り合わせているうちに路頭に迷い、最終的に自分がどこへ辿り着くのかを委ねてしまうような魔力が。
作品を書く以前の自分には、いつの間にかもう戻れないし、「書いてはいけない」と思うことまで、気づいたら書いてしまっている。憂鬱に抵抗しているつもりが、却ってそれは増強し、さらに強くなったその渦に足元を掬われながら、またそれに抵抗していく作業を、ずっと繰り返している気がする。

 夜中にこの文章を書いていたつもりが、いつの間にか、朝の四時になっていた。まさか、このエッセイの結末が、こういう風になるとは、自分でも予想していなかった。以前誰かが、
「日が登ると安心する。色々なものが白日の元に晒されて辛い面も増えるけど、誰かの気配を感じるから」
 と言っていたことを、ふと思い出した。文学も同じだなと、今思った。

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