見出し画像

影響というお話

あくまで、個人として。

良くも悪くも言葉を知っただけでなく、少なからずどういう事なのか?を自分なりに追いかけてみると、見えてくる物があり。

そういう部分からも、なるほど、と。

学がないとはいえ、少なからず応用をするので「自分なりという形」になり、学術的からは離れる事にはなると思いますが、そういう部分に触れてみようかなぁ、と思います。

心理学上での環境感受性、環境からの影響ってこういう事なのかな?という感じですよ。


親からの影響

幼い頃を振り返って、人格形成がある程度なされるまでを記憶から辿っても意外と記憶に残ってたりします。

良くも悪くも、もう生まれつき変わってたからなのか。

自分を守るためでもあり、自分自身だから踏み込める領域に行くと、たしかに母を守る切っ掛けというものもあり。

未だにそうなのですが、集中しても色々感じ取ってる=常に周囲を無意識でも探ってると言う状態でもあります。

そうやって幼い頃を振り返ると、

兎に角自分が大事な父→人の振り見て我が振り直せ、の反面教師になってました。まぁ、そういう部分では色々ありすぎたので、今では軋轢の元にもなってます。

うん。

また、性別の部分がなにはともあれ根底にあったからか、母からは結構な影響を受けてるとも思います。

苦労人というのも、母似というか。私と母でそれぞれ個人としての部分があるのは間違いないのですが、その辺が母に似て「あんたも苦労しとるんやね」なんてのは、母を知ってる人からはよく言われてましたし。

なんだかんだで、一歩退いて。

こっそり見えない所で縁の下の力持ち。というか、評価されたくないが故に隠すかのように色々やるというのも母似。

見つかったら見つかったで、なんやかんや言われますし、ね。

「頑張りすぎっていうなら、協力して欲しい。」

母似の部分は、感受性の部分の差なのか、「あんたは突っ込んでやりすぎ」というのは言われる事もありましたが、やっぱり母の影響だと思います。

頑張りすぎだという話は、母とだけは合いましたから。普通の事やってるのに、話を聞かないまま勝手に判断するだけでなく、いざとなると協力の文字は辞書にない。

そういう部分は、少なからず母もそうあったようです。

うん。

なのでこう、やっぱり親子と言われるのは、母と一緒に居たほうが言われましたし、言うと怒るので余り言われなくなりましたが「鳶が鷹を生んだ見たいで、似ていない」というのは、父と一緒にいて言われてたのも、

しっかり記憶してるんですなぁ、なんでか(笑)


いい影響、悪い影響

この親にしてこの子あり。

時に見聞きしたり、実際にそういうタイプの親子に遭遇したりという事はあると思います。

また、触れにくい話ではありますが、カッ!となってしまいやすいのは、親の影響という事が見られる、というのもやはりあって。

そういう意味では、センセーショナルな事件があると、少年法や少年院へのバッシングがあったりしますが、実際のところは幼い頃の親からの影響という部分は否めないと思います。

その辺は、今年に入ってから、実際にかかわる部分で仕事してた人の目線、そういう目線での話も聞いたりしたのもあって。

ほんとこう、

「そういうつもりはない」

というのは、いささか迷惑過ぎるのでは?と。

個人の経験だけでなく、見聞きした話などからも、強くそう思うようにもなってます。

思いの外、自分だからと思ってる事でも。

確かに自分自身の持ち物ではあるものの、踏み込んで深掘りしてみると、親からの影響は受けてるなぁというのは否めず。

そして、その中には良い悪いがあるというか。

ある程度成長したのであれば自分が把握して制御する必要はあると思います。

ただ、それがこう、ね。

未発達というより、未熟でしょうか。そうあると、中々制御出来ないと思いますし、それ以上に記憶を遡っても、まずは自身が否定して目を背けようとすると思います。

なので、良いか?悪いか?は、余程でなければ他者が言う物ではない、と。

そういう意味でも、ね。

テレビだけでなく、ネットですらも、個人が自由という建前のもと、好き勝手に間違い正しいを兎に角言うだけというのは、あまり良い影響でもないし、そういう環境はどうなの?と、思います。

情報ってのも出所がありますし、限界もあって根本には触れにくいですが、目に見えてる情報はもう、又聞き程度のあくまで情勢を報せるから、情報なだけで。

正しいか、間違いか、なんてのは、また別の話になるのが「現実」なんですけど。

うーん...。


カエサルの格言として

有名どこは「賽は投げられた」でしょう。

ですが、このカエサルという歴史上の人物は他にも色々残してるようで。

その中には、その時で既に

人間みたい物しか見ない、信じたい物しか信じない。

そういうニュアンスの事も言ってたそうです。

まぁ、実際そうあると思いますし、私自身も、いくら突き詰めたところで何かしらを言うからには、取捨選択として「そうあるもの」として扱う物も多いです。

そして、こういう部分は、

皆と違い過ぎる、と。違いに気付いただけでなく、評価したと思えば。

別の見方になった時には、違い過ぎるのがおかしい、と。

周囲から無駄に矛盾をぶつけられるものの、そうある当人の話以上に、自身の主観、自身の見た目ばかり優先して話を聞きやしない。

何度となくされてきた、自身への扱いからも、歴史上の人物どうこう以上に、今生きてる自分がそれを実感すらしてるという。

こういうのは、あくまで現実論として語ってるだけで、そうあるのが良い悪いという話ではないので。あしからず。

こういう部分も人それぞれなので、正しい間違いって言える物でも無いんですよ。

個人としては、そういう部分から過剰過ぎる程の「正しい、間違い」の応酬ってこれはもう、人間同士の分断を狙っての事では?と。

こういうのを陰謀論とか言われもしますけど、

「見たい物だけ見るをやめて、現実しっかり見てみると良いよ?」と。

あくまで可能性。

とはいえ、人が何かしらを言うからには、思考、思い、意図という物が絡むからこそ、言葉にして言うという、ね。

そして、正しい間違い、良い悪いが出た時には、おおよそ自分が見た範囲だけで、相手を決めつけてるという事は、結構日常の中にもあるんですね。

これは、自分に向けられてる物だけではないです。

なんでそんなに、人が良いのか?というのも、こういう部分が絡んでるというか。

清濁併せ呑む

良いも悪いも、良い人悪い人も、勝手に決めつけて排他的になるのではなく、一旦は迎え入れて付き合ってみて何がおかしいのか?と。

違う見方、違う関係性、違う状況、違うやりとり。

何かが違えば、違って見えるのが人間なんですよ。

あくまで、心理学上では、人間社会や現実というのは環境として扱ってないようですが。

個人としては、正しい間違いなんてのは、テレビだけでなく、ネットにすら溢れてるからこその、影響じゃないでしょうかね。

表面だけで、毒されすぎでございますわよ?


あとがき

うつ病だから、季節うつというのもあるから。

それは分かります。

でも、人間の心理や精神って、そういう情報があるからそれだ!なんて決まるものでも無く。

また、そうあるからこそ、病状となれば病院での診断が必要になる、と。

ほんとこう、ね。

見た目だけとか、軽く聞いた程度で決めつけないで?と。

未だにそういう事が多いのもあって。

自分自身との向き合い、問いかけ、内側の深掘りを長い時間かけてやってきてるので、相当に深い所まで行ってたりします。

そうなってしまったのは、兎に角違うだなんだ、ごちゃごちゃいう周囲のせいなんですが?

おかしいもなにも、そうさせたのは、貴方たちです。

うん。

そこに対して、幼い頃にかけた「普通、皆と同じになる」がもう、剥がれつつあるんですよね。実際問題としては、認知を歪める方向になってましたし。

それ以上に、思い出したくもないのに思い出す。忘れたくても忘れられない。

個人としては、存在の否定と言わんばかりに違いを受け入れてもらえず、おかしい、ありえない、正しいだ間違いだ、良いだ悪いだを、相手主観=相手都合だけで、ぶつけられてばかりでしたから、ね。

そういう二元って、簡単に扱えるようで、実際は奥が深すぎるっていうのに。簡単に扱おうとするわ、それ故に無自覚無意識での無責任と言わんばかり。

今の自由って、便利にし過ぎて楽を選び過ぎたが故の弊害というか。自由ではなく、楽がしたい、だとも思います。

自身の自由を貫けば、他者の自由を侵害する事もある。

自分の権利を主張してもぎ取れば、もぎ取られて迷惑を受ける他者もいる。

世の中に無駄にあふれるから、そういう影響を受けてしまい、そういう人も増えてしまってる、と。

そんなの知ったこっちゃない。

ええ、それも構いません。

でも、年金なんかが割と良くない方に行ってしまったのも、そういう言い分から監視の目を光らせなかった、多くの国民のせいでもある、と。

ほんとこう、良い悪い抜きにしても、やっぱり何かしらの影響って、誰しも受ける物だと思うし、そこが特殊であれば、出る杭になるんじゃないですかね。

気付いて、反対方向に歩み出したりしますので。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?