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書くリハビリ 幼い頃のアレコレ

流石にこう、ね?

誰だよ、自己肯定感が低いなんてのを、HSPの特徴にあげてたりするのは。

という、トンデモナイ内容を目にしてしまったので、私の中の棘が育ってますが。

正直こう、

成長が伴ってない=様々にサイズが小さいからこそ受け止めきれない

そういう、子供であるからこその部分を、そのまま当てはめてる人って多そう。

逆に、サイズが小さいからこそ、感じ取りやすい、という部分もあり。

幼い頃の記憶が残ってる人は、そういう、ね?

自身の感覚の変化って気づいてると思います。

個人としてもこう、子供の頃は受け止めきれずに、反応を示しやすかった部分って多かったりします。

そういう部分を思い出しつつ、書いてみようかな、と思います。


夏場はしかめっ面になってしまう子

小学生の間だけでも、徐々に慣れていきましたが。

1、2年の頃は、体育の授業で外に出た途端、目を細めたりしかめっつらになるのが日常で。

なので、問われるわけですが、

「眩しすぎて、目が開けられない・・・」

それほどに、眩しがってたのではなく、光の影響を受けやすかったんですよ。

幼稚園から小学校に上がってからというもの、地面にはアスファルト部分が増え、校庭は白くなってるので白いが故の光の反射が強く。

アバババババー!!!

ただただ、日光が眩しいだけでなく、校舎の白い壁すらも、光を強く反射してて眩しい。

今でも、問題ない範囲では、薄目にしたり、短距離であれば目を瞑って行動したりします、外で。

また、成長の過程で「眩しい」が「光が目に刺さる」という、ね。表現の変化も発生しました。目のサイズが大きくなるからか、少しずつ余裕が出来て、光が刺さるかのように目の中に入るという、ね。

そういう掴み方が出来るようになったんですよ。

ただ、こういう部分でも、クラスどころか、学年で1人だけという。

しかも、影に入っても、影の外の光を見るだけで、目に刺さるぅ!だったので、影の外が眩しい、影の淵が眩しいなどと言ってました。

うん。

まぁ、こういうのが1人だったので、普通にすることを要求されましたが、無理なんですよ。

ただただ、眩しいだけでなく、脳というか頭にも光を取り込むことでの衝撃=ザワザワと神経が騒ぐというような感覚も有り。

極端に1人だけおかしい=何か異常でもあるのか?何かが変わってるのか?にはならなかったんですね。

とはいえ、これには別の側面があります。


小2での屋外のスケッチにて

自分の目に映るままに、色を塗るという部分で、光の影響としての別の側面。

色についての美的な部分での反応も出るようになりました。

うん。コンクールに出展されることになり、最低限レベルとはいえ、賞ももらえたので褒められたわけですが。

えこひいきだ、とイジメの原因にもなったんですよね。色んな意味で懐かしいです。

まぁ、その頃から、そんな所まで見えてるの?という感じで。

光の影響を受けやすい分、色の見え方が違ってるし、だからこそ表現した時に他の生徒と比較すると、明らかに違いすぎる、という感じでした。

ただまぁ、この部分は成長に伴い、それぞれ伸びていきますし、周囲にいる人に恵まれてるのか、個人の素質だったのか、自分以上の人は沢山出てくるようになりましたね。

ただ、ただですよ。

兎に角、細かすぎるという部分だけは、そんな細かい所まで描かなくても、と、逆に呆れられてしまうほどに、見えたまんまを表現すると、細かくなりすぎてた、という部分だけは。

変わってました、ハイ。比較されると、やりすぎ、と。

逆に、細かくなりすぎる事が仇になってましたけどね。

今となっては、絵を描くこと自体減りましたが、色の合わせ方、選び方という部分では、やっぱりというか色それぞれで反射が違うので、目にかかる負担を軽減する選び方をします。

そういう部分から、服選びに付き合って、とか言われもして。

まぁ、絵については認めてくれたのが母だけで。

絵を描くことを仕事にするのはダメと、周囲の圧力が強かったし、それが母に向きかねないという部分から、只でさえ無理をしがちな母をかばおうとして、自分から遠のいたという部分があります。

ほんと、ね。

環境次第なんですよ。

認めて伸ばしてくれる環境があったなら、IFの世界線では違う私になってるかもしれません。

ですが、現実の方では、私自身のそういう部分を認める事はしてもらえず。

何かに付けて、都合が良い評価は長男、跡取りとして持ち上げられるのに、都合の悪い評価はむしろ否定されるという。

どんでもない環境にいたので、今となっては光の反射と目の負担に関する、色の選別程度になってしまってます。

とはいえ、見えすぎてるという根底の部分は変わらないんですよね。

何でお前、そんな所まで見えてんの?とか言われもしますし、ね。


生臭さは敵だ!

これは未だに変わらないというか。

どうしても、胃の方が吐き出すような動きをするので、社会人として生活してた頃は、面倒なことが増えすぎたので、敢えて口に入れて涙目になりながら食べるなんてこともしてたくらいです。

ええ。

臭いも気付きやすいんですよ。

屋外でのガス漏れの話なんかもしたことがありますが、化学工場なだけに、様々な臭いが雑多にある中で。

検知器を持ってこなきゃわからない程度の臭いを、階上で気づいて鼻で感じ取れる臭いを追いかけて、漏れてる場所を見つけ出すという。

こういう時も、あくまで可能性レベルなんですが、臭いが漂ってくるラインが脳内で再生されたりします。

それを元に、只でさえ嗅ぎ取れる臭いを追いかけて、見つける、と。

こういう部分も、ね。

生臭い臭いは無理です!というのは、幼い頃から全く変わらず。周りがピーマンを嫌ってるのに私は平気で、逆に魚介類になると私だけが極端に嫌う、と。

今でも、ホントダメなんですよ。味覚ですらも、そういう生臭さを感じやすいからなのか、即座に胃がせり上がってきて、おぇっしますし、今は他の要素でせり上がりやすくもあるので、しすぎるどころではない、と。

それ程に、生臭さには反応します。

とはいえ、畑から臭い堆肥系の肥料の臭いなんかは、ただただ臭いだけですごせるんですけどね。

海とかだと、体調次第では口を抑えて「ごめん、むり」と。

まぁ、生臭い=食中毒の可能性と考えれば、生存本能的な部分と思いますし、ガスなんかも余裕があるとはいえ、危険性に対しての察知であるともいえます。

また、焦げ臭さにも気づくのが早いんですよ。

焦げてるまで行かなくても、加熱しすぎてる時に臭い出す物も感じ取れるようで。母が存命の際は、コンロを離れて忘れてしまってる母に、鍋だいじょうぶ?って気づかせてました。

よく気づくので、理由を聞かれるわけですが、焦げては居ないんだろうけど、焦げに近い臭さがすると答えて、ちょっと呆れられた事もあります。


成長に伴う変化や、その他

服のタグなんかも、幼稚園に上がるくらいまでは反応してました。

かゆい、こそばゆい、と。

当たる所、当たり方で言葉は変わってましたが、結構反応してたんですよね。

ただ、幼稚園に上がってからは、あまり気にならなくなったと思います。まぁ、気持ち悪く感じる時は今でもありますが、ガマンが出来るレベル。

こういう、部分もあるのですが、やっぱりこう総じて、成長するに従い感じ方と反応の仕方は変わってきてますし、経験や知識が伴うからこそ、細部まで的確にという物が増えました。

まぁ所謂、美的センスという部分での感受性なんかは、間違いなく成長したほうが伸びるでしょう。

こういう部分は、ほんと環境やその中で出会える人次第では、急激に伸びもするでしょうし。

だからこそ、そういう、ね。色々と情報が飛び交う中では、クリエイティブな仕事が向いてるとか言われもした、と。

五感なんかも、苦手とか不得手ばかりじゃないです。

そもそも、光や音、臭いなんかは、周囲が気づけないレベルに気づいてしまうことで、それが危険に関するものであれば注意を促すだけでも、おかしいだろ?と時に言われもします、当たり前のように。

だって、ねぇ?

小さすぎる物に気づいてるのが、自分だけ、なんですもん。

感覚過敏みたいに、苦手なものとか、それに類するではないんですよ。

時々、感覚過敏の人が細かく拾えてるとか言ってますが、すまんけど、言葉や文字からの感情の漏れは気づいとらんじゃろ?みたいな。

こういう部分も、ですよ。

幼稚園時点で既に、自然と気づいて先生やクラスの子のサポートをやるだけでなく、言語化することで当人に気づかせるというのもお手の物だったんですね。

言語化出来てない子って、うまくできないもどかしさはわかってても、何がどうあってうまくできないか?という部分が掴めてないんです。

そういうのを、目で見て対処してたから、よく気づく、面倒見が良いという評価になるし、ちゃんと相手を観察するだけでなく、問いかけもすることで、母親が怒りっぽいからこそ、人の違い以上に、大人の女性である先生を怖がるというのも見抜いてました。

そういう部分も、ね?

幼稚園児の時点で対処してたんですよ。

最悪、怖がりすぎる子には、「全部私がおっかぶるから、こいつのせいだ!って言ってくれていいよ。先生と私がお話するから」

どうしても、先生の手が必要な場合は、嫌なこと、コワイことは私が代わりに受けてあげるから、だいじょうぶだよ、ということも、ね。

見たり聞いたりで気づけるから、やって当たり前だったんですよ。

だって、弟や社宅住まいだからこその年下の子の対応でも、やるような事でしたし。

まぁ、幼い頃には、辛い記憶が多いわけですが。

見える聞こえる、気付けるという部分は、幼い頃から自覚してた部分だけでなく、自然と、対人関係の難しさに対する潤滑剤みたいな立ち回りもやってたんですよね。

逆にそれ程出来てたからこそ、性別という部分での聞き分けの無さ。

私自身としては、いくら男の子だと言われても、全く理解できない。それどころか、見習いなさいって示された子を見ると、「いや、あんなの無理、男の子過ぎてコワイ」ってね。

ホントこう、全体を見てもらえず、都合の良い部分は褒められて、都合の悪い部分は感情的になって怒られる。

そういう矛盾を日常的に、しこたまぶつけられるという、悪い経験にも繋がったりしてます。

うん。

他にも、ね。

音楽家の家庭に生まれなくても、そういう部分に反応しやすい子もいますし、だからこそ幼い頃から学ばせた結果、大成するというタイプもいると思います。

かと言って楽器は高いですし、親が嫌うようなら子供が望んでも触れられないということにもなると思います。

そういう音に関する反応に対し、周囲が認めて伸ばすというポジティブさを与えれば、それに影響されて伸びる。

とはいえ、楽器やレッスン費という部分から、望んでしまったがゆえに叱られるようだと、そういう感情的になって視野が狭まるという、ネガティブさの影響を受ける。

そういう、ね。

何かに影響されることで、示す反応という部分の話が感受性というか。

自分はHSPだとか、当てはまるか?否か?でもなければ。

そういうメンタルが弱い人を救うための言葉でもないんですよ。

人が持つ、感受性という部分にメスを入れてたら、感覚処理感受性が高い人をHSPという、と、そういう話になっただけ、みたいな言葉なんですよね。

何でそんなに、自分用に勝手にカスタマイズするのか?っていう。

なんかこう、育つ過程で悪い影響受けてるんじゃないですかねぇ・・・。


あとがき

その言葉が当てはまろうが、自分が自覚できてる以上、言葉にハマる必要もないどころか。

逆に、ハメ込む事で、視野が狭まり、思い込みから自分を見失うという悪さもあるので、敢えて避けるほど。

自分がそういう事をやると、今だけでなく、先々がどうなるか?すら一瞬で掴めなくもないわけで。

というか、それ以上に。

なんで、今みたいな流れが出来てるのか?が不思議です。

未だに、雨後の筍の如く湧いてくると言わんばかり。

知ったと言いつつ、新しく、自己肯定感が低いとかを特徴としてあげてるような人すら出てしまってるのは、謎、です。

その、ね?

人それぞれ感受性を持ってるし、かと言って同じにもならないんですよ。

美的センスという様な部分では、ピアニストやバイオリニスト、指揮者という方に進む人も居ますし。

バンドやったり、作曲したり、音楽だけでも方向性は様々。

また、そういう音楽に限ってみても、成功なのか、趣味レベルなのかという、ね。

同じ方に伸びたとしても差がでてしまうもの、なんですよ。

それなのに、妙に限定的な3つの言葉だけで、自分がどうこうとか。

申し訳ないけど、全然気づけてないし、感じ取ることも出来てない事を丸出しにしてしまうだけ、です。

個人としては、環境が最悪とも言えるものだったので、むしろ自覚をもって敢えて抑える、見えても、気づいても敢えて捻じ曲げるという、意図的な認知のゆがみを発生させてましたし、わかっててやってるので、修正する必要がないどころか。

現実を深いところで見つめすぎ。

他者の感情を取り込むどころか、自分のものとして処理しすぎ。

そういう指摘をされたものの、それが所謂普通、自然体での見える、聞こえる、気付ける由来の部分ですってことで、認知行動療法は難しいとか言われました。

まぁ、感受性だけでなく、自分の気づいてるものを抑え込むという部分から、客観視のほうが伸びてという、別の部分は個人としてあります。

真面目とか、ストイックとか言われても、そうしないと、敵意を向けられるダメージが大きくなるので敢えてそうしてるだけですし、ね。

人間が一番怖い・・・。

シリアルキラーやサイコパスではないですが、時として一番怖いのが人間とされもするのが人の世。個人としては、そこまで行かないとはいえ、真面目でおとなしい人という印象は自分も持たれてるので、

自分がやらかさないに作用してるのも、感受性由来です。

正直、そういう狂気じみた部分が深い所にあるのも自覚してます。

うん。

ほんとこう、ね?

自分さえ良ければいい、というのも、幼い頃からさんざんぶつけられてるというか。

過ぎてる、おかしいと言われるのに、都合が悪くなると攻撃って多かったので、相手を見ないまま、自分の主観を大事にしすぎるが故にやってしまうミスなんかは、相当に見てるだけでなく、自分自身が矛先として向けられてました。

なので、自分でも嫌だと思うことがあるわけですが、そういうのって気付きやすいです。

また、繕うかの様に誤魔化す、話題をそらす、その上で攻撃を再開するという人も多かったので。

今のHSPブームって、そういうものだよね、と見ています。

自分の弱さから目を背けると言わんばかり。

特徴を好き好きに、知識を深めないまま、自分がそうだと言いたいからといわんばかり。

そういう、ね。

ネガティブさは、精神病むほどにぶつけられてきたので、気づいてしまいますし、嫌なものはみないようにと言われても。

嘘とかでっち上げというのは、流石に見過ごせません。

うん。

というかですよ。

人の有り様を指す概念って、真面目、優しい、かっこいい、かわいい、他様々にありますし、ポジティブな評価で使われることもありますが。

自分はHSPなんです、のHSPにはめてみんさいよ。

自分は真面目です、真面目な自分、真面目な自分に見える世界。

言ってて恥ずかしくなるんじゃないですかね?

ホントこう、何も気づけてないじゃないか、っていう。

酷いもんです、よ?

やれやれ。

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