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感受性を紐解いてみる(多分その1

あくまで個人的にですが。

今ほどブームになる前から、HSP=感覚処理感受性という言葉を知り、少なからず触れたりしてましたが、現状はなんというかもう酷いというんですかね。

少なからず、飯のタネみたいに扱われてるという部分はあると思います。

なのでこう、本質とはズレてしまったとっつきやすい言葉で表現されてるというか。

幼い頃から、自分ではよくわからないけど「感受性が高いタイプ」と言われてただけでなく、そうあるからか世の中に対しての見方も凄く違ってて。

そういう経験の中で嫌でも見せつけられてきた、人のいい加減さ、無責任さという部分が、とうとうここまで手を伸ばしてきたのかぁというのは、個人的に感じ取ってる事だったりします。

とはいえ......。

言葉で説明するのは難しい、いや、言葉で説明したところで今まで伝わったためしがない部分の話しに踏み込む事になります。自身のトラウマにも関わる部分なので避けたかったというか、複雑な気持ちが嫌でも湧いてきてしまう。

それ程に、扱いが難しい。それ故に、慎重さも期さなければいけない。

周囲からは、自分に対してストイック過ぎと言われてしまう部分も、どうしても表に出て来てしまう。実際はそうじゃなくて、現実として何がどうあるのか?を突き詰めてるだけなんですけどね。

あくまで、今まで相対してきた他者の中で、同レベルまでそういう突き詰めや掘り下げが出来た人が居なければ、付き合ってくれた人も居ない。

既に他界してますが、私にとって一番の理解者であると感じてた母ですら踏み込んで来てくれないどころか、母の価値観での正しい、間違い、おかしい、気にしすぎというような言葉での切り上げがどうしても発生してしまい、それ以上は母の方が先に感情的になってしまい喧嘩になるので、言うに言えなかった部分。

私自身にとって、感受性ってそのくらいに扱い辛い部分でもあるし、書いてみようと思ったところで、何をどう書いた物かなぁ...と思い悩まなくもない所なのですが、自分なりに書いてみようかな、と思います。


正に読んで字のごとく

最近=2021年7月現在の状態としても、いまだにHSPという言葉は生きづらいだ繊細だというような、何かを形容した形の言葉が用いられてる世の中ですが、実際には違います、と言い切れるくらいの物は私自身の中にはあります。

何で違うのか?という所なのですが......。

まぁ、書いてますが「何かを形容してる言葉」ではない部分が、感受性という話っていうんですかね。

感じとるなり、受け取るなりしたまんま=感受性という感じです。

それに対し、何かしらの感情の動きだったり、それが当てはまる概念としての言葉を用いたのが、嬉しい、悲しい、生きづらいだと言う様な形容詞の言葉であって、感受性ってその言葉ではないんですよ。というのが、私個人としての言い分という感じです。

実際問題として、そういう言葉の外の話だから。

HSPという言葉に触れながら、noteで記事を書くだけでなく、他の人の記事を見たり、動画をみるなりすると、そういう事が頭を過ります。

感動するとかいうのも、感動する様な物を感じ取ってるという部分が感受性で、感動した=感想なんですよ。

すごく細かいとか、厳密すぎと言われそうなのですが、そのくらいまで突き詰めないと、実際には見えてこないものなんですね。自分の感情という霧に閉ざされてしまうという感じです。

ストイック、真面目、そういう言葉で指摘されたりもする部分ですが、実際はそうじゃないんですね。そもそも、そういう指摘も私自身を見た、話しを聞いた人の感想なだけであって、話してる側としての話の主旨はそこではないんですよ。

こういう所すらも違ってしまう。

だからこそ、感受性が高いって言われてしまう。

こういう経験を幼い頃から嫌という程してきてます。少なからず見積もっても40年は間違いなく。

それ程に違い過ぎるので、嫌という程他者から記憶に焼き付けられてしまってる。私個人の言い分ですが、感受性ってそういう深すぎる自身の部分の話しという事になります。

まぁその、読んで字のごとく。

感じた、思ったというような、価値観や感情が絡む部分ではなく、それより深い「感じ取った、受け取った」という部分が感受性。それ以降は、感じとった部分由来の何かしらの反応という話になるんですよ。


何がどう違うのかわからない

さて、少なからず私自身としての言い分を出してみたのですが、ここで予想されるのがこれです。

感じるという事と、感受性の違いって大してわかんないし、屁理屈じゃないの?

と、いう人も出てくるでしょう。と言う様な事も、自分で書いてて感じ取ってます。

少なからず40年と書いたので、そこから経験則の話だろうみたいに勝手な解釈をしてしまうから、そうなってしまうんですよ、という手痛い指摘もしつつ。

良くも悪くも、感受性が高いって事すら自覚が無くても言われるくらいでもあったので、こういう部分すら明らかに違いが発生しているという話になります。

また、そういう経験が無い幼い頃から、こういう部分は変わらない部分でもあります。

こういう部分の話しをすると、過去のアレコレの記憶が出てくるのですがほぼ100%の確立で、相手側が「正しいか?間違いか?」という話に変えようとしてくるから、過去のアレコレが発生していたという部分もあります。

その、ね?

自分と違う相手に対して、自分の基準で正しいだ、間違いだ言ったところで、自身が間違ってるってそうそう認める人はいません。

なので、ここで正しいだ、間違いだという話にしてしまうと、その先へ進めなくなってしまうんですよね。決着をつけるという形を取らないといけなくなってしまうので。

そこが面倒で、幼い頃から感受性としての感じ取りの部分って話せた試しがないですし、HSPという言葉が世に出てきた今でも抑え込んでたりします。

そのくらいに、ズレるというか。

HSPの話でも、元をたどればアメリカのアーロン博士という方が、自身がどうしても周囲と違ってしまう、ズレてしまうという部分があったからこそというのを見聞きした記憶があります。真偽のほどは別として。

そこがスタートだとしたら、兎に角ズレるんですね。

そのズレに対し、個人的には「完全には無理だけど、可能な限り、正しいや間違いと言う様な、善悪二元論みたいな1か0かの話にはしない」という表現をしたりします。

感じてる、感じてるとはいえ、何がどうあってそう感じるのか?を突き詰めると、現実問題として「目に見えない何かを受け取ってる」という状態があり、それが発端となって様々な反応があるんですよ。

感情が湧くとか、言葉が浮かんでくるという事すら、その反応という程に。

なので、自分の言い分であっても正しい、間違いではなく、単純に感じ取った部分の話しをしてるだけですよ、という話をしてるはずが......。

いつの間にか、それが正しいか?間違いか?という話にされるだけでなく、相手が「私の方が間違ってると認めろ」と言わんばかりに、こちらを間違ってる側として話を進めようとする。

というのも、散々経験してきました。

と、自身の話が出すぎてしまいましたが。

ここまで来ても、何がどうちがうのかがわからない、というようであれば、それはそれで仕方なしという話でもありますし、だからと言ってどちらが良い悪いとか、感受性が高い低いという話でもないんですね。

ただただ、あくまで私個人は「そういう感じ取りをしてるんです」というだけの話なんですよ。

そして、そこには今までの人生での経験以外の何か=目に見えない物というような物が存在しなくもない。そんな感じの話なので、わからなくても当然でもあるんですよ、という方向で落ち着かなくもないです。


扱う事の難しさ

正直な所、私個人としては人の感じ取る部分での話なので、変に決め打ったり形を作ることは出来ないし、しない方が良いとも思います。

それ程に扱う事は難しいです。

40年の積み重ねと書くと、この人昭和から生きてるから、そういう時代の影響を受けてるという風な判断もされそうですが、これまた違うんですよ。

正直な所、時代なんて関係ありません。

結局の所、その時代、その時代でのマジョリティとマイノリティ、多数派と少数派の意見の入れ替わりが発生してるだけであって、そこの元には「言葉」があったりもします。

人がコミュニケーションを取るのに使われるのが、言葉。

言い替えてみれば、言葉もある種の道具ですし、人が生み出す人工物です。そして、時代がどうあれ人間同士のコミュニケーションや、意見交換に使われてるのが言葉であって、時代が変わったからって言葉の使い方や意味合いが大きく変わってるなんて事はありません。

とはいうものの。

その言葉を使ってるはずなのに、どうしても伝わらない。

私自身としては、私がどうあるかを伝えてるだけなんですね。でも、それは周囲の方から疑問に思ったり、不思議に感じたりして、それは何故?と聞いてきた事であっても、何故だか相手側の価値観での正しい間違いの話にすりかわってしまう。

こういう経験も多々あるので、伝える事の難しさは身に染みてますし、伝わらないからと苦にする事はありません。そもそも、自分とは違う他者に自分の事を伝えようとしてるわけです。相手に伝わらない事も不思議ではないんですね。

言ってる事が矛盾してる様にもありますが、だからこそ「感受性という物に対して共通認識や、一定の区切りを置く事というのは、それ程に難しい」という事を言いたかったりもします。

この辺については、HSPという概念は心理学の概念ですし、研究されてる方もいらっしゃいますので、お任せしたいとは思いますよ。

一定の枠組みを作るのは難しいと言いつつ、それは矛盾ではないか?

そんなのは分かってますし、承知の上で言及しています。そもそもとして、人の生み出す物って完全とか絶対って無理なんですよ。だからこそ、研究という事もされ続けてるわけで。

ただ、この内容を書いてる時点でのHSPという言葉の扱い方や、感受性についての取沙汰のされかたは、歪な物を生んでしまいかねないので、それは止めて欲しいという感じです。

感情や感想と言う様な物と、感受性を切り分けられてないですし。

これが出来ないと、突き詰められないです。

また、一定の枠組みが出来たとしても、心理学という学問がある限り、見直しや再検討は必ずされると思います。

そういう見直しや再検討すらしない人達には任せられないです、という話なんですね。

ホントこう、自身がそうあるから身に染みてるという部分は過分にありますが、可能な限り除いても、今まで言葉で伝えてるのにうまくやり取りが出来たためしが無ければ、相手が感情的になって叩きのめしにくるばかりだから、現状として精神病んでしまって、通院してるだけでなく、精神障害者手帳3級も持ってたりします。

という事で、その辺の話もしてみようかと思います。


と、書いた物の。

やっぱり長くなったので、ここから先はまた改めて。

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