見える事と客観視の話
あくまで個人の話ですが。
まぁ、今までも何度となく「幼い頃から、よく気づく」という部分が、どうしてもズレてしまうと話してきましたが。
2回ほど前の通院でも「客観視が強い」という、ね。
そこを押し出すようになったのも、ちゃんと理由があります。
先日も、ね。
現在の時事ネタに触れましたが。
やっぱりこう、ね。
凡その人が気付けないか=至る事が出来ない部分すらも、目に見えて気づくという感じなので。
客観と見える事の関係性を、個人視点で触れてみようとも居ます。
まずは前置き。意外と大事です。
えー、個人としては精神科通院する中で、先日指摘されるまでは、
「寧ろ、出来てるとは思えてなかった」
という部分があります。自己肯定が低いとかではなく、ね。
そして自己肯定云々は長くなるので割愛します。
客観や客観的となると、感情や価値観を取り除いた上での、”第三者的”ですから、自己判断すると思い込みの落とし穴にはまりもします。
普段はそうなくても、思い出した時は意識を心掛ける。
でも、それが出来てるか?はやはり、他者視点での意見が必要になる。
ただ、今まではどうしても。
普通じゃないとか、滅多に見ない、会わないとか。
そういう話ばかりだったので、受け入れ切れなかったんですよ。
それがまぁ、通院だけでなく。
カウンセリングでも指摘された「現実の深い所を見つめすぎ」も合わさって、もしかして出来れるのかなぁ、くらいに変化したタイミング。
個人として、そういう状態になったというのは、大事な前置きになります。
客観、という言葉。
よく、相手の立場に立って、という風に言い換えられる。
見るにしても、聞くにしても、そういう置き換えを見聞きするわけですが、これも落とし穴があるんですよ。
「相手の立場に立った上で、第三者的視点から、個人の感情や価値観を除いた上で」
です。
相手の立場に立ちつつ、「自分だったら」になってしまう人は、自分という言葉が出てきてる時点で、
それは主観に切り替わってます。
言うなれば役者とか声優、ですかね。
登場人物のセリフだけでなく、それまでの流れだったり、設定としての性格だったりを取り入れた上で、演技をする。
皆が皆そうではないと思いますが、そういうお仕事なので、「自分だったらこう」と言うのは抑えられる方もいらっしゃると思います。
そういうのが客観、と。
自分だったらこう思う、自分だったらこう考える。
相手の立場にたったとは言え、自分としての話をするのは、主観でしか無く。
だからこそ、客観視やメタ認知って難しいですし、様々な情報や本も出てくる、と。
HSPという言葉でも、相手のことを考えてといいつつ、こうかな?こうなのかな?と思っても、
「相手に確認せず、自分の認識だけで決めつけるのはアウト」
そうなんですよ。
個人としての経験、周囲の言い分なんか、ホントそういう感じです。
あまりに違いすぎるも、客観が使えてれば「そういう事もあるのかもしれない。それは別人の思考や発言だから」となり、そういう人なんだ、という置き換えも出来ると思います。
でも、自分と違うから、自分と同じ=その他大勢と違うから。
ある有名な人の言葉を借りれば、
「それって、あなたの感想ですよね?」
が、日常的に横行する=自身にぶつけられる、なので。
只でさえ気付きやすいのに、そうあるからこそ「嫌ってほど」という例えが出てしまうレベルだったので、余計に気づきやすくなってしまった。
ということで、最後に再度言っておきますが、
客観って、自分だったらではなく、自分ではない第三者的な思考や意見を扱って、人に限らず様々を判断する為の物ですよ。
だからこそ、お粗末だと
言うようになりもした、と。
客観が使えてない。
自分はそういう人と言いたい。そういう主観ありきの話題しか無い。
感受性とか、敏感や繊細以前に。
普段から客観的な判断、物言い、見方ができてれば可能な部分が出来てない。
加えて言うなら、出来ないからこそ「肩書を持つ人」を「自分の盾にして」、もしもの時には「言い訳に使えるように」
有名人、著名人、本という存在を語って、自分の威光とする。
そんなことはない、ではなく。
客観的に見れると、そういう話にもなるんですよ。
「それ、あなたの感想ですよね」というのは、それを集約して簡単に述べてるだけで、その人の中では深かったり、広かったりするので、
深く触れようとしない限り、言ってる人しか扱えない。
ものなんだけど、その人を応援してる、言い分を認めてるという部分から、自分も同じという同一視を無意識に働かせて。
自分の言葉として、そういう人が言ってたから、として扱う。
コレと同じですよ、HSPブームのあるあるだなんて。
なので、研究してる人より、本を書いた人が前面に出たり、それを扱う芸能人が持ち上げられる。
かぁー。
なーんにも見えてないんですよ。
というか、本当に繊細と言えるような気付きができるなら、配慮すらも細かくなりすぎて、驚かれるのも日常になるわけですが。
それって、それ程に「細かすぎておおよその人が気付けない」というレベルすらも、「当たり前で普通」と言うほどに気づけてしまうから。
見えてしまう=多角的、にもなり。
それを扱おうとすると、客観も自然と使ってしまうほど。
そうなると、主観という「自分として」が消え去ってしまう。
結果、自分に厳しいとか、自分を犠牲にしすぎ、殺しすぎ、と。
言われるんですよ。
何度説明したとしても。
意味もなく、自分語りとか、周囲からの評価を語ってるわけではありませんのよ?
正直、リテラシー=読解記述力とか・・・
それこそ、少なからず突っ込んで、心理学よりの内容を扱えるようなら。
感受性以前に、客観視とか客観が扱えてるので、自分がどうこうって話をしない。
寧ろ普段から、当人が気づかないほどに、客観を扱えてる人のほうが、HSPという人らしく見えるのでは?と思います。
ただ、そこは「只の客観なのか?」という区別は必須。
でも、診断基準がない=それは適わない。
診断基準がない、という簡単な言葉ですが。
読み解ければ深くもあれば、幅が広くもある。
そういう表現なんですよ。
ぶっちゃけ、客観だけでなく、リテラシー。
読解記述力があるようなら、このくらい朝飯前レベルだと思います。
でも、このリテラシーとHSPとか感覚処理感受性は違うので。
これまた区別は必要になる。そう思います。
読解記述力なんてのは、力(チカラ・リョク)が付くので「能力とも言えるもの」ですからね。
そういうのを踏まえるからこそ、
「記事を書くのは自由だけど、国語の成績どうだったの?」
ネットではなく、実生活なら。
相手の距離感次第で、即座にぶつけて、相手に問う。
個人としては、その程度のレベルの話が多すぎ、と。
日常生活の中で嫌というほど経験してしまうこと。
それこそ違う他者だからこそ、出来ないのが明け透けで見える部分。
そういう部分を、とうとう話しとして持ち出すに至ってしまった。
なんだよ、これ。
せっかく言葉に期待してたのに、妙な人たちが、自分の為に扱おうとするって、流石に酷いですよ。
だって、日常生活の中で「出来てない人たち」がやってしまう行動、言動と同じものを見せつけられるんですもの。
本当にそうあるなら、深く踏み込んだ上で、言葉をあつかいますし、それこそ、ね?
某掲示板でのスラング、「半年ROMってろ」
知ったから即触れるではなく、観察しつつ、見聞広げて、自分の肥やしにする。
そのために、半年ほどだまって、スレや掲示板全体を見て。
「学んでくれ、ルールだけでなく、流れがあるからこそのコミュニケーションの場だから」
ただただ、相手を蔑むだけのスラングではなく、奥には真意が隠れても居る。
皆が皆そうではなくとも。
実際に、敢えて観察した上で、流れを知る、読めるようになる状態を作ってから触れてる人だからこそ、そういう「半年ROMってろ」が言えてしまう。
表面しか見れず、深掘りが出来てない。
深い処理すら、出来ると言いつつ、やれてもなければ出来ても居ない。
それは何故か?
それこそ、自己愛性パーソナリティ障害というような。
自分可愛いが過ぎて、嫌なことは認めない。すごそうな部分は即座に取り入れる。
自分可愛いが過ぎてる様がみえてしまってる、と。
とはいえ、素人判断は危険です。
しかも、自己愛性パーソナリティ障害というくらいですから、精神疾患としての扱いもされてる。
なので、病院を受信することをオススメしますとか、したほうが良いのでは?という触れ方もするんですよ。
ほんとこう、ね?
冷静さというのも大事だし、冷静さを持つためには、
客観的な視点で、人だけでなく物事も推し量る。
これが出来ないと難しいと思います。
だからこそ、「メタ認知」という言葉も聞かれるようになった。
あくまで個人としてですが、その様に思います。
それって、あなたの感想ですよね?(苦笑
あくまで、個人に向けられたもの。
良いものだろうが、悪いものだろうが、評価は見定めが必要。でも、それが出来ない以上、
「それって、あなたの感想ですよね?」
同族嫌悪っていうんですかねぇ。
どうもこう、無意識下で合わないなぁ、と感じてしまうから触れない、避けるをしてる人の言葉ですが。
私も普段からいってるわ・・・・(笑)
「それ、アンタの価値観からの物言いでしかないじゃん?」
そうやって、即座に返せもするので、人に振り回されるなんてまずないです。
寧ろ、やられたらやり返す。
しかも、今になってようやく心理や精神という部分での通院で、お墨付きももらえるような状態なので。
更に、変化してるし、周囲からすれば悪化でしょう(苦笑)
ここからは私と家族の話になりますが。
うちの父って、言語化という部分では相当に下なので、私が自分のレベルで話をすると、追いつけないのか顔が呆けるんですよ。
「何言ってるのかわからん( ゚ ρ ゚ )」
こんな感じで。
だからこそ、自分に固執しなければ太刀打ちできなくなってしまう。
そして、私が小学1年の時点で、ビデオデッキやテレビという家電類で、接続が必要な物に対する担当者になったほど。家族の中では、ですが。
うちの父、説明書を「読む事が出来なくて、即座に放棄する」ってタイプなんですね。
そこが、私との会話になると顔が呆ける=言葉の処理が追いつかない。そんな感じです。
なので、話を聞いてる、聞いてないの争いもあるのですが。
「聞いてるなら、私が何を話したか説明して?」
と問うと、出来ないからこそ、
「俺はそんな話はしていない!」
と、自分の話にすり替えて出してきます。
まてまて。お前さんが何を話してるか?ではなく、聞いてる聞いてないという食い違いがあるから、聞いてるというなら。
「聞いた話を答えて欲しい」
そうやって、問題点を「聞いている事の証明」に焦点を絞って会話を進めてるんですよね。
でも、出来ない。
出来ないだけでなく、イライラしてしまうから、言い返そうとした結果。
自分が話してる話してない、にすり替えて対応してきます。
まぁ、ホントこう良くも悪くも反面教師なので。
常に「学習教材が傍に居る」という状態だったりします。うん。
で、争ったりはするも、完全な決別は無いし、何かあれば父の方から、
「そんなに気を遣わなくていい」
気を遣う遣わないという話をしてなくても、自発的にそういう言葉を投げかけてくれるんですよ。
こういう部分は良し悪しもあります。
ですが、私個人としては「家族としての付き合い」をしつつ「違う個人同士の付き合い」も両立してます。
なので、良い悪いは、ホント評価次第なんですよ。
だからこそ。
家族とは言え、違う個人が集まる、集団生活。
実践してるからこそ、こういう事を言う、と。
言うだけでなく、言う以前に実践してる。
言うは易く行うは難しを反面教師にしてきた結果、自然と我慢しながら「自分は出来る、自分だからこそ明言できる」という状態を自然と作ってしまうタイプにもなりました。
根底には感受性があるとはいえ。
育った環境が影響してますし、それ以前に気づき過ぎるからこそ。
自然と多角的にもなるし、主観と客観の線引きが無いような状態になるという、個性とも言える部分も影響してます。
と、余談が長くなりましたが。
主観=自分の立場として=自分の感情や価値観がもりこまれる。
なので、主観で言うばかりだと「感想だよね?あんたの価値観だよね?」
そう返されるのも、当然の結果、自明の理、です。
そして、あなたの感想ですよね?の人も、
「知らない事には弱い」
そうある自身だからこそ分かる弱点も、少なからず口にしてたりします。
そうなんですよ。
「知ってるからこそ、それは感想だよね?って、突っぱねられるだけ」
です。
論破だなんだと騒いでるのは、当人以外の、外野。しかも、真意を知らず勝手に騒いでるだけ、です。
でも、言ったって聞かないだろうし、相手にするのも面倒なので。
好きにさせてる=外野は好き勝手に言うのを許されてる。という、置き換えも出来てしまうんですよ。
だからこそ、ね?知る事は大事、と。
相手が人なら、彼を知り己を知れば百戦殆うからず、です。
コミュニケーションや、会話、会議でも、兵法って通用するというのを、実践という経験をもてるから言うんですよ。
それなーのに。
共感や、その派生による同一視から。
あの人の言葉を使うから自分も同じ。
そういう人が増えすぎですよ。
そして、HSPも、ね?
芸能人が言ったから、そういう本があるから。
知りもせず、それと同じだと勝手に共感や同一視を発生させ。
自分はHSPだと言う。
なんで、「心理学上の概念」って前置きしてるのか?というと。
それこそ心理学に触れてれば、理解できそうなことをやってしまってるからなんですよ。
そうあるからこそ、知らないことには扱えないし、知ることは大事ですよ、と。
ほんとね?
自分はHSPだからとか、HSPな自分なんてのも。
「それ、あなたの感想ですよね?」
そう言われかねないものだと思います。
あとがき
良くも悪くも、経験という糧、それこそ病院という場所での指摘もされたので。
大手を振るかのように振り回すようになりました。
まだまだ温い。
そうある自身だからこそ言ってたわけですが、これからは、今以上に厳しく律するかのように、突き回すかも知れません。
一応の配慮はしますけど、ね。
診断基準がない、とはいえ。
知ってさえいれば、繋げることも可能。それこそ、言葉を重ねることで。
更には、ね。
病院という場所において。
医師や臨床心理士として、仕事ができる人から。
そういう指摘を、こちらから言わずともされる。
自然体で生きてようが、狙って隠そうが、繋がるところは繋がるんですよ。
現実の深い所を見つめてるからこそ、浅いところは朝飯前。
そうなると判断材料が増えて、考え方も多角的になる。
そうあるからこそ、自然とそれを扱ってると、「客観視が強い」という指摘をされる。
まぁ、こんな感じです。
幼い頃からコレだったので、幼稚園で出すのはやめなさい。
母が釘を指すわけですよ。
だって、普段から父がキレてましたから(苦笑)
泣き虫で弱っちいのに、肝心なとこでは泣きながらでも相手の目を見ながら追求する。
そうなると、相手が引かない以上、善悪や正誤以上に。
父はエスカレートもしやすいですから、無用なダメージを私自身が追ってしまう。
それを客観的に見れるのは、そこから外に立ってる母だからこそ出来ること。
また、それだけでもないんですよ。
その頃から、母は少なからず、「子供とは言え1人の人間だから、いくら親でも好きなように操作は出来ない」と。
言ってくれてました。
そういうのも、覚えてるんですよ。一瞬でも母のその言葉に感動を覚えたので。
だからこそ、感受性が高い、と言われもするわけですが。
あくまで、そういう評価しか出ないのが現状です。
しかも基準がない。
だから自分はHSPとか言えたもんじゃない。
あくまで病院での評価も自分の中に落とし込んでから、自分の意見として扱うだけに過ぎません。
故に自分がそうだなんて言わないけど、触れはする。
このせいで、ね?
言わないって言ってるけど、言ってるようなものじゃん!という判断もされそうですが。
そんなの、想定済みですのよ?
そして、いつまでも触れてしまうのは。
客観的に見ても「どんなに可能性を追っても、おかしい、奇妙に着地してしまうから」
それだけでなく、新しい話が出てこない。自分がそうだと、勝手に結びつけて主張する人が増えるばかり。
だからこそ、ちょっと待ったコールの様に触れるんですよ。
ねるとん紅鯨団とか、古すぎですけどね。
まぁ、ぶっっちゃけ、評価されても、自覚はないし、必要以上には受け入れません。
あくまで思い当たるフシがあるかな?程度の受け入れです。
そもそも、ね?
自分だって人間だから、過ちは犯すもの。
そういう部分も持ってます。
そして、そういう部分からは触れもするけど、「自分自身への疑問すらも感じます」
うん。
客観的に見ようとすると、こういう風に、そうある自身だからこそ、自分から進んで否定することで、自分の中に楔を打ち込み、失敗しないように注意するし、意識も持つんですよ。
否定をしないことには、反省もできなければ、改めることなんて土台無理。
そういうのも人間ですから。
自己肯定とか、自己否定も、ほんとアホくさい。
こういうのもなんですが、低次元ですよ?
肯定も否定もどちらも扱えなきゃ。
この世に絶対なんてありゃしない。
その壁が立ちふさがるんです、よ!
ほんとこう、仏教的な中道と、少なからずハマりすぎないように仏教にふれてると、ね?
中道ってなんなのか?という問いを持ちながら、実践しつつ、自分を正す材料にすらなりますよ。
なので、触れてみるのもアリだと思います。
ということで。
長くなってしまったけど、これはもう、ね。
抑えるための抑えが外れつつある状態の表れなのかもしれません
それでは。
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