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ねらい

HSPという言葉とともに、情報という話までするようになったわけですが。

実はコレ、それなりに狙ってやってたりします。

最近だと突っ込んだというか、個人の主観に近くなってるし、個人としては普通なので、

「この程度気づけますよね?正しい間違いとか、そういう話ではなく、客観的に見て、整理するとこんな感じ」

最初はやんわりというのは、昔からそうやってる、周囲や世の中、いわゆる一般的に合わせてただけで、自分を相当に押し殺してた状態だったりします。

ただまぁ、個人が叫んだ所で変わらないのは承知の上。

なのであえて、徐々に厳しく言うように変化しつつ、最近だと結構厳し目に言ってたりするのですが、

「それが普通のラインなんですよ。」

と、言いつつ、それでもまだ隠したりしてるんですけど、ね。


まぁ大方狙い通り

かなぁ、多分。というような結果も出てたりします。

うん。

まぁ、何を狙ってるかは余り話さないですが、徐々に自分自身に近づけてる=個人として当たり前に出来てる事を表に出すと、即座に異なものとしてみられる、というのを、ね。

記事を通してやってみようかな~、とかそんな感じです。

嫌でも本質出すと浮いちゃうんですよ。

当たり前に気づくラインが、イチイチ言葉を多くして説明しないと伝わらない。でも、伝えた所でそれが突き詰めすぎ。そこまでは普通見ない、と。

うん、わかってるって。でも、私はその突き詰めた物が見えるラインなんだっつーの!みたいな。

なので、真面目すぎだ、人が良すぎだ、気を使いすぎだ。何かに付けて”過ぎ、過ぎてる”がくっついてしまう。

割と最近でも、相談員さんとの話をしてる中で、たまたま別の方での対応で困ったことが合った、私はまだ接しやすいと言う話が出たので、詳しく聞いてみたところ・・・。

指摘したことがほぼ一致してて、事態を前に進めることができた。

共感性おばけですね=ちょっと話をしただけなのに、話の中の人の心理に近しい所を、多分、おそらくといいつつ、一致させてしまってる。

なので、普段自分の見えるもの、気づくものって押し殺して出さないようにしてるし、最初は狙って無かったのですが、その時点で気づいてたことは押し殺して、よくあるブームに合わせに行ってた。

でも、余りにもアレなので、とうとう自分自身を表に出すようになった。

うん。

まぁ、そんな感じです。


キーワードは言葉

会話だろうが、文字での書き起こしだろうが、ツイッターでのつぶやき程度だろうが。

なんでかこう、気づくわけですが、ようやくこう、ね。

ウェクスラー式知能検査をやったおかげで見えてきた、言語性IQに関してや言語の取り扱いの部分。

そこが、個人としてのキーワードかな、と思います。

幼稚園時点で、ちょっとこう抜けた形で「面倒見の良さ」を見せてたのですが、教えられた事だけでなく、自然と相手を見て気づいた部分から「問いかけることでの聞き出し」をやることで、解決させてたというのは事実です。

というか、それが出来てなかったら、多分助けに行くだけ行って喧嘩するだけのトラブルメーカーになってます(苦笑)

それほどに、見る、察する、気づくと言う部分から、それを言語化して操るなんてことを、幼稚園時点でもやってたし、その頃から「気づくからそう動くのが当たり前」という、ね。

そして、こういう踏み込んだだけでなく、詳細なところまで言語化するからこそ、ありえない自然への反応。

眩しさ、臭い、音、にたいしての、自分がどの程度の影響を受けてるか?と言う部分も細かく言語化してしまうから、同じものが見えない、聞こえない、臭わない人からは到底理解を得られなくなる、それこそ逆にそうなるほどに詳しく言ってしまってた。

なにがどうあれ、エビデンスとか科学的知見という部分では、正確さが危ういですが、HSPのDOESのD。

一瞬で処理が深いところまで行くというのは、眩しいにしても、ただただ眩しいだけでなく、光からどんな影響を受けて、それが自分にはどの様に見えてて、それだけでなく視神経や脳という部分でどんな受け取り方をしてるのか?

が、受けた時点ではわからなくても、影響を受けた以上、記憶から取り出して、詳細にかつ踏み込んだ形での説明をしてしまう、と。

こういう話ですよね?

みたいな。

光じゃなくても、色。黄色が混ざってる橙や黄緑、また、黄色が混ざってれば度合いによって受ける影響が変わりますし、混ざってるようならそれを目が検知してしまい、チカチカもすれば、クラクラもする。

でも、普通というレベルだと、そこまで見えないというか、目が受け取れないんですよ。

個人としては黄色が混ざると影響を受けやすいものの、白とかアイボリーとかでも屋外で建物の壁がその色だと、すっごい影響を受けてしまい、頭の中が一瞬でもクラッってしちゃうんですね。

我慢する、慣れるではなく、その状態でも強い光の反射を受け取ってしまうので、どうしてもくらんでしまうと言う感じです。

それの頻度も多ければ、そんなに影響を受けるのはお前だけだ、と。

それでの色々が面倒になったので、口に出しすらしなくなったものの、影響は受けてるので、ストレスも多いんですね。

自然なんてもう、どうしようもないし、影響をうけるのは仕方がないわけです。自然だから変えようが無いし。

という感じで、実際にそういう影響を受けるだけでなく、影響を受けてると判断もできれば、どんな影響を受けたのか?を細かく、詳細に説明もできてしまう。

なので、おかしい、と。

そんなに感じ取ってるやつは今まで見たことがない、と。

言われ続けておりますのよ。


人それぞれ違うとは言え

最初はブームよりに、合わせに行ってたんですね。自分のレベルがどうにも過ぎてるのはわかってるし、だからこそ、「それじゃちょっと足りないよね?」であっても、

個人個人の差があるから、それも仕方のないこと。

なので、合わせに行ってたのですが。

「流石に普通過ぎるというか、レベル低すぎな話が多すぎ・・・」

自分の度が過ぎてるとはいえ、それは自分としては「当たり前の感覚」なんですよね。でも、「周囲にいる人達との比較」というものが入ると、「明らかに違ってしまう」どころか、環境の変化で人の入れ替わりがあるのに、その「明らかに違いすぎるという周囲の反応は一致する」。

個人としては、どれだけ人が入れ替わっても「度が過ぎてる」というのは何でか一致してしまう。

そうあるせいか、自分ほどにある人って出会ったこともなければ、届かない人が「山のように居る」という現実が否応なしに襲ってくる。

だから最初は抑えて、かくしてという感じで、そこが狙いだったりもします。

なので、どうしても嫌らしい人にすらなってしまう

度が過ぎてるどころか、到底同じレベルにねーわって当たり前のように言わなきゃならなくなるので。

それほどに、色んなものを拾いすぎてしまってるんですよね。

そりゃもう、気付きすぎてるだけでなく、なまじ善悪なんて概念があるから、哲学してしまうほどにあるくらいです。

そうあると、どうなるか?を少し。


自分がどうとか、まず除外するもの

主観を捨てるんですよ。

客観的に見て話さないことには、説得力にかける。主観だと自分の立場、自分の都合が思いっきりはいるので。

だからHSPという言葉も、自分がどうこう以上に、客観的に見た情報を重視してたし、運良く研究されてる方の発信に出会えたので、そちらを拾った上で、自分を押し殺してたくらいです。

だって、その言葉は自分を表すものでもなければ、自分の為の言葉ではなく、

心理学という学問で語る上での概念だから。

自分用に扱えないものなんですよーう?

それなのに、自称だったり、HSPな自分だったり、自分なりの研究とかいう人まで出る始末。

研究って実際に「仕事として従事」したことありますが、大変だし、研究してるなら、

「相応の形式で、研究成果を、発表します」

じゃないと、門前払いだから(笑)

自分なりとかただの自己満足だし、自分で自分を慰めてるに過ぎないです。研究を甘く見過ぎだし、こういう人がいつまで経っても出てくるから、

日本は研究で遅れを取ってしまうのだ、と。

海外の場合、今の基準ではおかしい、そんなのあり得ないであっても、当時の基準では真剣に向き合った上での研究をしてたわけで、それを2000年近く積み重ねてるし、そういう環境があったので研究と言うことに対しての大衆の見方も違います。

ただ、日本の場合島国だったし、もともと交流がなかったし、明治維新の頃に海外に目を向けて気づいてから、取り入れ始めたという、ね。

まだまだひよっこなので、研究に対しての姿勢が大衆まで及んでいない。だから軽視されもすれば、わけわからん!な事を、自由という言葉を曲解した上で語りだす。

というか、ちゃんと見据えてて、ちゃんと気づけてれば、話を繋げて大きくしたり、それを小さく戻したりも自由自在なんですよ。

でも、言語化がウェクスラー式知能検査で測れないどころか、数値化できないけど確実に能力があるといえるものを持ち合わせてる、と。

病院での検査で、そういう結果が出たくらいにあると、妙なことを口走るやつに早変わり、と。

で、こういうのも検査だったり、医師や臨床心理士とはいえ、他者の評価なので、「へー・・・程度しかないです」。

何がどうあれ、自分の持ち物なので、自分にとっては良いも悪いも、出来るも出来ないも関係ないんですよ。

生まれた頃から付き合ってる部分が、時の流れとともに研究や解明が進んで、解き明かされてるだけでしかない。

そういうものなので。

それなのに、なんかこう、ね?

申し訳ないけど、カルト宗教HSP教と揶揄されても仕方がないと言わんばかりに、生きづらさだ、生きやすさだというのは、流石にお粗末ですよ。

その生きやすさが、こちらの生きづらさを加速させてる。

楽をしようとしてると言わんばかりのその姿勢が、誤解を生んでるので、そういうのを持ってると、ガチでの迷惑行為でしかないんです。

正直、我慢しなくて素直に言えばいいとか言われるんですけどね。

そもそもが、おかしい、あり得ないという「異質」扱いですから、最初から全開にすると間違いなくその方が問題を生むだけだぞ?と。

だから、ね。

最初は抑えて、相手側に合わせつつ、やんわり。

だったわけですが、心理学としての環境感受性だ、感覚処理感受性だに触れないどころか、言葉が出ないだけでなく。

好き勝手のたまうのが、雨後の筍。

そりゃもう、憤怒までは行かないですが、明王様みたいになってしまいますよ。


あとがき

何はどうあれ、個人としての主張でしかないので、梨の礫なんですけどね。

基本的に、誰しも自分が基準になるし、もし真に受けたら相当だと判断され、抑え込まれることうけあい。

幼い頃からそれで大人たちによってたかって抑えられてた。

その中には親すらも居た。

親が受け入れられず抑え込みに来る以上、自分で立ち回るしか無いんですよ。

結果、精神病んだわけですが、過ぎてるのは分かってるのに、それを受け入れたら大人として負けだから。

そう言わんばかりに抑え込まれてて、どうしようもねぇなぁ、大人って。

という経験も散々にしてたりします。

なので、HSCママとか言って、自分の子供凄いんです!みたいな、子供使った代理戦争とか、やめろよ・・・って思いますよ。痛い所を突くと大人は怒るってわかってるので、間違ってると気づいてても、

指摘しないで、親のやりたいようにやらせるから。

という、どっちが親だよ?状態になるだけです。なので、正しい間違いではなく、色んな情報に触れて知見を増やしてほしい、と。

知見を増やすほどに、扱える手札が増えますし、その事で行動の幅が広がるし、それが経験になって後から振り返ると、なるほどって気づくことになる。

それを一瞬で気づいてしまいかねないのが、HSPという、ね。

そういう話をしてるはずなんですよ。心理学の方でも。

ただ、その時その時で頭の中が見えるわけでもないし、出来ることにしても限界があるので、頭の中を客観的に覗けない=どうしても限界があるし、未知の領域のほうが広い。

なので、研究が継続されてる、と。

そういう意味では、心理学や研究以前に、人間の根本。優劣による感情の揺り動きが邪魔をしてしまうという、ね。

本能という本質に近い所に寄りつつあるんですよ。

精神とか心理とかの研究自体が。

なので感情どころか、本能ないしそれに近しい部分を自分で押し殺して、理性というものすら扱えないと、語れないような。

そういう部分に来てしまってるとも思います。

こうなると、それこそ一般大衆には扱えない。

だって、感情や優位性が邪魔をするし、それこそ現状のブームでも自分用に扱うという、自己愛性を拗らせてないかい?という人が相当な確率で見えてしまう。

トンデモナイ、時代にナッタモンダー。

こういう事を、当たり前のように見えてるからと、当たり前のように語ると、そこまで見えてない、無理、と。

その結果、宇宙人だ、仙人だ言われもするんですよ。

理解という部分すら、個人差をもつ部分なので、多くの人の理解の外=人外な扱いもされてしまうという。

お前はなんなの?人間なの?と何度か問われましたが、余りにもズレ過ぎる機会が多いので、逆にその辺の自信を失うほどです。

人間だよ?って答えると、いや、お前はおかしすぎるぞ?と言われ。

人間じゃないかもねぇ?と答えると、そうだよな。おかしすぎる所が多いしと言われ。

そんなこと言っても、客観的に言えば、母親のお腹から生まれてるし、両親もちゃんといるし、人間ですよ?

なのですが、なんでかそういう部分は皆同じ、という話になり。

んじゃ、下らない質問しないでくれる?と言おうものなら。

質問したくなるほど、お前はおかしいんだよ。

ってなってしまう。そんな経験もなんどか、友人とのやりとりで経験してるのでした。

ちゃんちゃん。

とはいえね。

エビデンスがないし、そうあるからとは言え個人の経験談だし。

正確性という部分ではモヤモヤが止まりましぇん。

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