感じてる、受けている、というお話。
まさに読んで字のごとし。
”感受性”というものは、自身が感じてる、だけでは済まされない。
というのは、個人としての経験と言う部分以外にもあったりします。
自然と見えてしまってる、聞こえてしまってる。
そういう感じで、目が自然と、耳が自然と。言い換えるなら、自分自身の体の感覚を感じ取る部位が、何かを感じてる=影響を受けている、と言う状態なのも感じた時に把握できてます。
今回は、そういうお話。
そうあるからこそ、何故気づく?
実際問題として、一瞬視界に入った程度や、何かの物音に紛れてて周りには聞こえてないもの、という感じで、実際としては、何かを体が受け取ってしまってる。そういう事も結構多いです。
なので、傍目には集中が別の所に行ってるのに、不思議と気づくヤツにもみえてしまう。
だからこそ、何でそんなに気づくのか?と言われもするんですよ。
そして、こういう場合は周囲が気づいてない事すらも、何でか把握してる=その環境に何かがあるから影響を受けてる、何かを受け取ってる、と。
正直な所、こういう部分を自分で向き合いながら突き止められるまでは、自分のほうが寧ろ不思議だったし、おかしいと思ってたくらい。
でも、そうと言わせないほどに、脳がちゃんと記憶してて、様々な情報を提示してくれるんです。
そんな感じで、体のほうが感じ取りやすい、受けやすいというのもあれば、それに対して内面の自身が気づきやすい=脳での処理の問題か?というのは自然と湧いてくるというか。
だから、何かを感じたみたいな、感想めいたものだけじゃない、どころではなさすぎる。
そんな感じなんですよね。
そもそも、感情が湧くというのも、単にそれを見た聞いただけでなく、
例えば多くの人が悲しんで涙を流してる場に行けば、少なからずその場の影響を受けてしまい、自然と涙が流れもするんですよね。
逆に、現実として把握してる場合は、身内が相当に集まってこないと、ただただ現実としてみてるだけで、一人だけどこか遠くの世界に居るような錯覚も覚えます。
実際、祖父や母が亡くなった時に病院に駆けつけても、何でか涙が流れなくて。
連絡が回って、近しい親族が集まって、周りに泣いてる人が増えた状態になるまで、何でか泣けない、悲しみすら湧いてこないみたいな状態だったんですよ。
それも、予め、ありえない感じとりとして。
もう帰ってこない。
とうとうお別れの時が来たのか。
と、祖父と母については、自分で自分が嫌になるほどに、漠然とそういうのを感じ取ってしまってて。だからこそ、その時が来ても寧ろ分かってた現実が訪れたと認識してただけでなく、そうあるからこそ涙が出なかった。
こういう話は流石に周囲には出来ません。
ただまぁ。
こういう話も、そうあるからこそ、まさに気づいてた。
そんな感じなんですよね。
寧ろ現実として、現実論として
感情としてのものを感じた
だけじゃないです。はっきり言って。
まぁ、個人として感じ取ってる、受け取ってる物の話なのでしかないし、経験からしかいえないですが。
どちらかと言うと、現実への直視、のほうが強いです。感情よりも、そうある現実として、感じ取ってる、受け取ってる。
こういう部分からも、環境からの影響を”受けている、受ける”というのも、納得できてしまう。そんな感じです。
なので、敏感とか繊細も、正直どちらも合ってるといえば、どちらも違ってるとも言えるもので。
そういうの関係ないです。個人としては。
敏感だから繊細だからではなく、否応なしに何かしら影響を受けてるから、気づきやすい、反応しやすいだけであって。
そうある様に対して敏感や繊細ほか、そういう言葉や概念を当てはめることが出来るだけでしかない。
なので、逆なんですよ。
うん。
正直、辛いとか、苦手とか、そういう自身の感情とか意識とか、挟まないで動きますからね。
感じ取るにしても、影響を受けるにしても、それで即座に行動にでるから自覚出が出来ないし、指摘されても脳にある記憶や情報は違うものを示してるんですよ。
仕事をしてて、やったことあるなら分かると思いますが。
細かすぎる所にすら、常日頃からヒヤリハットへの対策をしてたような感じです(笑)
なので、些細な部分だけど、後々の事を考えて。
ミスをしないだけでなく、分析の仕事とかガラス容器や薬品、劇物なんかも扱うので、そういう物の破損や飛散に対し、自然と気づいて対策しちゃってた感じです。
なので、個人としては、そういう感情や意識以上に、環境やその中の状況という現実に対しての方が、間違いなく働いてるものだ、と。
言い切れる程に、色々経験してきてます、はい。
感情や意識以前にあるもの
個人としては、自身の感情としての感じた以上に、現実としての対応だ動きだでほぼ占められてる感じです。
感受性についての部分になると。
結局のところ、意識してしまうのも、感情が湧いてしまうのも、それ以前に何かを受け取って、自身の脳が処理してるからこそ、そうなってしまうんですよ。
こういう部分も、自分でしっかりつかめる程に区別出来るほど、です。
というか、おおよそ周囲から指摘されてる時って、
物凄くシレっとしてるというか、え?今何か変な事した?
と。指摘されなきゃ気づけないほど、だったりもします。
また、感情面の話になると、幼い頃の”自分じゃない自分になる”が強く働きすぎてて、プライベートどころか一人になってないと、自身の感情として湧いてないなぁ...って感じです。
周囲の喜怒哀楽に完全に合わせに行ってるだけなので、終わった途端に疲れが出るだけでしかなく、楽しさも何もなくなってしまうという。
こういう部分も、”環境から影響を受ける”という、そのまんまというか。
周囲の感情に当てられてる、飲まれてるという感じも否めない時があります。意外と。
結局は、何かを感じる、感情が湧くにしても、そういう現実があるからこそというか。
こういう部分が、カウンセリングで言われた「現実を深い所で見つめすぎです」の原因ではないかなぁ?と思います。
そして、こういう部分を見せた人が居たけど、そうあらないと分からない部分だからこそ、という感じで、
”深い処理”
なんて言われたのかなぁ?とも思いますよ。
実際は、既に深い部分を感じ取ってる、そういう部分から影響を受けてるだけで、そうあるからこそ脳が処理して情報や言語として示す事が出来る。
そして、個人の経験として嫌って程あるわけですが、
どうしても言葉にしてるのに伝わらない、そうなったら、言い換えるしかない
まぁ、それでも伝わらない事も多いですし、実際に同じような感じ取りや受け取りが出来ない人とは、話が合わないとも、思います。
あとがき
なんかこう、心理学から提唱がされたというのも、なんとなく納得がいくと言うか。
感じとる、影響を受けるからこそ、自他関係なく様々な心理や意識、思考が動く、働くするものなんですよね。
それに対して、周囲以上に見えてしまってる=感じ取った、影響を受けたのが人であれば、感情や心理という部分に触れてしまう事にもなり。
そうあるからこそ、相談上手の聞き上手と言われたり、真面目過ぎだ気を遣いすぎだ言われたりもすると言うか。
そして、今更ながら。
こうして、色々ごちゃごちゃ言いつつも、色々触れてるわけですが、心理学ってくっそ面白いですよ、ほんとこう、なんていうか。
自分自身だからこそ、そういう部分で生まれる時代が早すぎた...と思わなくもない程に、今となっては時遅し、が否めないのも少し悔しくも感じます。
まぁ、その悔しさ含めて、楽しんでるんですけどね。
そして、そうあるからこそ、触れて欲しいというか。
HSPだけでなく、多様性だなんだ言い出すと、実際問題としては、正しい間違い、良い悪いというような、二元で済まされなくなるんですよね。
人間どうしても、そういう正しい間違いに固執しすぎるというか。
そうあるからこそ、世の中がいびつになってるとも言える程。そういう風に見えてしまってるんですよ。幼い頃から長い事そうあるせいで。
理想で言葉をおもちゃにするのではなく。
本気で多様性って扱おうとするなら、少なからず心理学とかに触れて、自身をコントロールする術を自身で作り上げるくらいやらないと、現状では自身を抑えられない人が多すぎだと思います。
他の動物と違って、人間は理性や知性があると言われますが。
正直、寧ろ動物と同じで本能てきじゃないか...と。
思います。うん。
また、深掘りすれば、欲、なんですよね。
七つの大罪って流行ったのになぁ。
傲慢、憤怒、嫉妬、強欲、怠惰、漏れ過ぎじゃないですかね。
うーん...。
<追記>
こういう事を書くと、影響を受けやすい、だけ抽出して、
情報や本に影響をうけやすいから!とか、すっとぼけた事言いそうな人もでそうだなぁ、と思い付いてしまい。
いやー、ね?
日常生活を送る上での様々で。
自分の意識、感情、感想関係なく、無意識、無自覚でも動いてしまう程に、色々受けやすいって感じです。
都合の良い部分だけ、抜き取らないように、ネ。