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経験から語ってみる4(言葉の難しさ

良く言われる要素に、細かいという部分が個人的にあります。

感受性としての感じ取りについては、言葉の意味やそれがもたらすイメージ、そのニュアンスなど、そういう方面でも働いてしまう事って結構あるんですよね。

それ故に、上辺だけの情報や話題性には流され難く、違和感を拭う為に下調べや裏付けを行う事って結構多いです。

また、そういう言葉に対する反応、向き合い方から”気にし過ぎ”と言われるのですが、これも何度も説明したところで、”過ぎてる”という違いに気付いてるのにそうある当人の説明はまず否定されます。そして、相手基準に置き換えられて語られてしまう。

んんん?コミュニケーションって、言葉のキャッチボールじゃないの?

言葉に対する感じ取りも、受け取る初手の時点でズレてしまってるので、どうにも話がおかしな方向に行ってしまうし、行ってしまってる所に気付いて訂正を求めても、自分は感じない、自分の在り方が一般的だから、普通だからと私に対しては否定をする。

なので、すっごく面倒くさい要素ももってるので、ホントに今のブームって何でこんなことになってるの?なんですよね。

という事で、言葉という誰しもが日常的に扱う物に対して、どうあるのか?に触れてみたいと思います。


いきなりぶった切る

という事で、若干国語の授業っぽくなりますが、難しい事はわからないので、詳細は調べてみてくださいね!

生きづらい、という表現なのですが...すごくおかしいんですよ。

これは、生きる、と”しづらい”が合体した表現だと思います。

そして、この”しづらい”は、し=○○するという意味でのするが該当します。そして、”づらい”は辛いになるんですね。

何とか活用とかそう言う部分は面倒なので省きますねー。

結果、生きづらいって表現は”生きるのが辛い”という事になる、と。これはそう言うつもりはないとか、そういう意味で言ってるんじゃないという話ではありません。

言葉やその表現が何故生まれるのか?という部分での、生まれた意味みたいな所にあたるというか。自分の解釈がどうあれ、国語とか日本語としてはこう言う扱いになるものなんですよ。

それに対して「私は知らないから」という言い訳をしてるに過ぎず、無知はなんとやらを自ら告白する様なものです。

そもそも、HSP自体が心理学上の概念であって、心理学としての意味や扱い、歴史ほか複雑に絡み合ってる部分があるので、興味を持って触れていかなければ、何も知らない、まったくもって分かってないという状態のまま、都合よく扱ってしまってるという事になるんですよ。

だから、HSPかどうかはさて置いても、周囲からの見立てで幼い頃から感受性が高いと言われるだけの個人に、チクチクさされてしまうという、ね。

あ、肝心な所言っておきますね。

何はともあれ、感受性=前回説明したように誰でも持ってる感じとる能力みたいな物が高いとどうなるか?という所ですが、

生き難い(いきにくい)という表現になるかな、と思います。

説明するのもなんですが、上と同じような感じです。

し=〇〇する、そのするに対して、そうすることに難がある、難しさがあるという意味でのにくい、難いが付くことでの、いきにくい、です。

しづらい、しにくいは似た要素があるせいか、混同され気味なのですが、するのが辛いのと、するのが難しいであると、やっぱり意味合いって変わるんですよね。

どうしても、ね。感じ取りの部分が高いと言われる=感じ取れる事での体感という、所謂普通に繋がる部分が既に高いので、普通という概念を一般的な解釈で用いられると、その時点で出る杭になるんですよ。

そういう要素もあるので、個人的に「自分だけ浮くことになり、出る杭になって良い悪い問わず相手の尺度で色々言われる」という事を言うんですね。

そして、良い評価を貰える事は、出来過ぎるという事にもなるので、大山のぶ代さんが声を当てていたころの、出木杉君にもなりえます。評価もされるけど、妬まれる...。

だからこそ、周りが気付かないレベルでの感じ取りを活かして、周りにバレないように、自分でコントロールして出る杭になるのを事前に避けてたんですよ。

こういう事って、自分上げになってしまうので、それこそ出る杭とならない様に普段から避けてるような感じの部分を、嫌でも表に出して説明させられる事になる...という事にもなります。

それも、大して意味を知ろうとしないまま、上辺だけで都合の良いおもちゃ扱いする、無責任な他者のおかげでそうせざるを得ないという、こちらとしては歯がゆい事態になってるような物です。

だから、口も酸っぱくなるし、そうなる前にはもっと心理学としての概念に触れよう、言葉の意味をしろう、その上で扱おうって言ってたんですよね。

提案ではなく、忠告とか警告の意味も含んでたんですよ。

ほんと面倒くさい...。


良いも悪いも経験するということは

個人としては、そういう言葉の扱いや、言葉の意味合いでもよく発生しますし、状況を切り分けて単語や単体としての表現では共通認識が取れるのに、なんで文章にすると途端にズレるのか?というのも経験します。

まぁ、そこにあるのはやっぱり個性。個人としての言葉の扱いや、言葉が作る概念の解釈の差に繋がるんですよね。

感受性が高い=感じ取る能力が高いので、それこそ色々感じ取る事で把握をするという事にもなります。

とはいえ、感じとったからとそれが正解とか絶対ではないので、一旦は保留にして、裏付けが取れるまでは自分が引くという行動に出ます。善悪正誤以前に、何がどうあれ出る杭になる=一般的という部分からどうしようもないくらいにズレてしまうというので、対人関係における様々な要素を避けるために自分がまず一歩引くという事をするんですね。

なので、それが出来ない幼い頃は、ストレートに出し過ぎていた。出し過ぎてたからこそ相手の怒りという感情を誘発させて、怒られていたという事を感覚的に気づく、悟るという感じになってたですよ。

そういう意味では、親や大人が教えてくれる正しさに対し、大人が矛盾した行動で抑え込みに来るというのを感覚的に気づいてただけでなく、そういう部分を言葉にして説明しても、子供だからと相手にされず受け止めてもらえなかったので、自分だけで向き合った、それ故に傷も沢山抱えたという感じです。

それこそ肉斬骨断なんですよ。肉を切らせて骨を切る、失敗して痛い思いをする事で知る、把握する=自身は心に傷を負う。

それが、現状での精神的な病みに繋がってますし、幼い頃の経験は嫌でもフラッシュバックしますし、それが短時間で重なり過ぎると子供みたいに泣きじゃくってしまいます。

と、ちょっと恨み言や愚痴っぽい物が前に出てきましたが、良いも悪いもを経験するという事は、確かに経験を積む事で経験値として活きるのですが、それは所謂対価なんですよね。なので、相応の代償もしはらうことになる、と。

あれほどハガレンが流行ったのに、そこに含まれてた錬金術としての等価交換という部分の大事さって伝わらないんですよね。悲しいかな。

片腕失ったり、鎧に魂が固着されたり...そういう大きな代償を支払う事で、学ぶ、経験を得るという対価を受け取ったんですよ、あの兄弟は。

って、話がやっぱりズレてしまいますね。どうしてもこう、色々揺さぶられると言うか。

まぁ、相応にしっぺ返しという部分はあるんですよ。良いも悪いもを経験出来るし、それ故に大人っぽいと子供の頃から言われてました。ただ、そこには感覚的に気づく、悟るという部分だけでなく、失敗をする事で出る杭は打たれるを嫌でも実感するという事でもありましたし、相応の傷やツケは必ずあるという話です。

感じ取りが過ぎる=相応の経験をする。だからこそ、年々磨かれる事にもなり、周囲と比較しても、真面目な子、出来る子、社会人になってはそうある人として評価もされました。でも、それだけじゃない。

それをもたらしたのは、割と最近になって知った、1歳時点でのおかしさ=私個人はほぼ生まれつきで持ってしまってた、感受性の高さやそれによる察しのよさ、付随する色々という感じなんです。

良くも悪くも経験する、良いも悪いもを経験するという事は、悪い部分以上の代償も支払ってるので、こういう部分要らなかったし、

何でそんなに持て囃してるの?その感受性で一体どういう経験をしてきたの?一体何を知っているの?

これはもう、感受性関係なく、人間であれば誰でも言いたくもなる、という事だとも思います。


言葉の難しさ

さて、なんかこう表現や言葉についてアレコレ言いましたが、他にもこう言葉が持つ妙、不思議さというんですかね。そういう物ってあると思います。

というのも、言葉を使う時は声になりますし、そこには感情がこもる事での様々な変化も発生します。

個人として、良くも悪くも行き当る言葉として”そんなつもりはない”という言葉というか表現というかがあります。

そして、これには本当に悪気が無いという場合と、悪気が無い事を殊更主張したいが為の自己擁護、自己弁護という場合があるっていうんですかね。

まぁ、表に出た感情で分かるくらいに、パターンがあるという感じです。そして、個人として受けてきたのは後者。もう、明らかにバツの悪さから逆切れしてる状態で最後の砦の様に聴くことが多いです。

と、これ以上は、ステイです、私ステーイ。

感情やそれに伴う語調とかもあるのですが、個人的にはネットで目にする文字すら感情の物質化と言わんばかりに、そう言うのを感じ取ってしまうので、言葉って難しいだけでなく、面白さもありもんだなぁという事は時折おもったりしてます。

ただ。

最近はネットを見てるだけでなく、ネットで話題=トレンドや話題として挙がって無くても、そういう表現を使ってあたかもそうあるかのように見せかけるという感じで、兎に角意図や狙いの元捻じ曲げられるという事も多いなぁと実感してます。

そういう方向でも感受性が働いてしまうので、迂闊にとか、表だけ繕ってとかそういうのは目にした時点で突き抜けて伝わってくる印象も強く。

そういう部分からこそ、リテラシー=読解記述力という感じで、情報の受け手だけでなく、発し手側もそろそろ考える必要があるんじゃないかな?って思います。

言論の自由とか、個人の自由とか、全然いいんですけどね。

自由に対して予防線を張らずに、張ったとしても用心が足らなさ過ぎて、思わぬ形で刺さってしまうという事は、最近増えてる様に感じます。

言葉って難しい......。

扱ってる言語が違うので、海外の方とのコミュニケーションが...もいいですが、そもそも同じ日本語を使う物同士をまず何とかするのが先じゃないかなぁ?

HSPという単語だけでも、流石にこれは酷いっていうか、ホントね。

実際に感受性が高ければ、深い所、下手すると無意識下にある、無責任さ、ご都合主義という部分も感じ取ってしまいますし、それに対して感じ取れない人の方が多いので、相談相手が居ずに抱えて悩むって人は多いと思います。

それだけでなく、言葉からそういう部分のヘイト。自分さえよければ他人が傷つこうがしったこっちゃないみたいなのが伝わりますからね。

なのでこう、流行りとか話題性って昔から嫌ってるというか、それが良いとか分かったから、押し付けないで!と辟易してしまうんですよね。

まぁ、そんなつもりはない=悪気が無い”つもり”なんでしょうけど。


とはいえ自分も

大概と言えば大概、と言われそう。

という部分も、記事なり文章を書きながら嫌でも感じ取ってたりしますし。それでもあえて書いて表にだしてますね、最近。

何はともあれ、幼い頃から親相手ですら隠したり、黙ったりして表に出さなかったのでヘドロみたいな、それこそ闇というものが自分の中に溜まりきってしまってます。

よくも悪くも感受性が高いという部分から、確かに控えてはいました。出来ない時もあったけど。でも、それは優しさとか、配慮とか、気遣いではないんですよね。そういう評価をされがちですが。

近しい人には、私は自己防衛をしてるだけだと、説明するのですが、それが優しいだ、配慮が出来るだ、何でそうなるの?というのも相当に経験してたりします。

優しさや配慮って、心を込めてやるものなので、そういう心がこもって無いんですよ。どちらかというと、感じとった部分からの、心とか感情を取り除いた現実に対する対応やその結果なので。

真面目さも、真面目という言葉を調べると、本気とか誠実とかいう言葉が出てきますし、こういう部分は感情や性格の部分の話しだと思ういます。というかんじで、こういう部分からして言葉に対する感じ取りと、その解釈すら違う。

なので、どうしても溜まってしまいますし、良くも悪くもその限界が来たので精神病んだものだし、もう何がどうあれ出すしかないなぁ、という部分があるので、予防線も一応引き打つ、かと言って言うのを許してとかも言うつもりは皆無です。

とはいえ、いくらでも言えてしまうのが、言葉だという、更なる難しさもあるので、頭を捻りはするんですけどね。

ただ、今の所、敢えて表に出す事で、幼い頃から何がどうあれ、自身の自覚関係なしに”感受性が高い”と言われてました。所謂一般的より、突っ込んだ部分での認識とか、感じとりの部分が表に出てしまった時に。

また、実際の所、HSPという言葉は今の様なブームになるまえから、Youtubeなんかでも見かけてて、知る事なんて今更という言葉でもあるんですね。ただ、その頃はこうスピリチュアル界隈っていうのかな。そういう所で扱われてて、HSP、エンパス、次元上昇という感じのワードが並んでました。

とはいえねー。まだその頃の方が、今みたいな繊細さんとか生きづらいとか誰でもハマりそうな表現なんてしてなかったし、寧ろ希少性を高く謳うような印象だったと記憶してます。

この頃の表現でも、まぁ恐らくそう言うタイプなんだろうけど、調べたら心理学での言葉みたいだし、変にハマり込むのは良く無いって感じで、感受性が高いと言われてしまう自分はHSPだなんて、全然思わなかったし、寧ろ否定しておいた方がイイゾという感じ取りをしてました。

なのでこう、ね。

それなりの感受性があれば、察して、気付いて、違和感感じて、裏付けの為に自発的に調べにいくんじゃないの?そうしないの?

私はしてますよ?

...おいおい、大概だなぁ、私も(苦笑


言葉と意味と概念と

深い物がある、感銘を受けた時にそういう表現を使う事もあろうと思います。

ただ、正直な所、個人としては言葉なんかは現実としての深さがあると思いますし、それ故に興味をもつし、意外と言霊ってあるのかもしれないとか、ぶっ飛んだりもします。

たかが言葉一つとはいえ、その言葉にはちゃんと意味という、ある意味命の様な物があります。

そして、示される概念という感じで、その言葉があるからこそ説明されるものがあります。

更に言えば、そうあるようになった言葉の由来、生まれた意味や背景という物もあるんですね。

良くも悪くも持ち前の感受性から、言葉一つに対しても、掘り下げる=追及して、知り、考え、想像し、扱う様に心掛けるということを、結構前からやってました。

ネットが普及してなくても、図書館だったり、辞典だったり、迷惑だっただろうけど広辞苑を立ち読m(げふんげふん)したり。感じ取ってしまったからなのか、自然と疑問を感じてたし、興味を持って追いかけてたんですよね。

そして、日本語にしては、掛け言葉や語呂合わせという感じで、言葉を上手く扱う性質みたいなものが根付いてると思います。

そういう視点で見ると、HSPを調べた時に行きつく感覚処理感受性や、環境感受性という言葉は、海外の論文から日本語訳したのだとは思いますが、

誰がこんな上手い字を当てたんだよ!!

という感じの驚きや、感動みたいなものがありました。あくまで個人の経験と感覚の話なんですが、これだけでも完結しそうなくらい言いたいことが伝わる、個人としても表現として扱えそうという感じで、ホントこう、研究してる人とかやっぱりすごいですね!?って思ったんですよ。

その、学術的な表現が正しいか否か?ではなく、個人としては触れれば触れる程、字や言葉が説明してくれてて、上手いなぁって感動するくらいです。

個人としてはそう実感できるだけの経験ってやっぱりしてますのでね。そういう受け取り方をする事にもなるというだけで、個人の感覚で終わると思いますが。

と、自分語りが過ぎてしまいましたが。

言葉一つにしても、色々深いというだけでなく、感受性による部分から伝わり方って様々だと思います。

だからこそ、ね。上手く伝わらないとか、理解されないなんて当たり前ですし、感受性が高ければそうあるのが当然だと嫌でも実感する程に経験すると思います。

まぁ、その、感受性の問題で経験出来ない部分を言語化して伝えてるせいで、気のせいとしか思えない、勘違いとしか思えない、そういう事にしておこう、というのは感じ取って気づいてたりしますし、だからこそ、病院の先生であっても、その根拠は?と問い返してゴタゴタした事もあります。

そういう部分はね。病院の先生だからって、周囲も話を聞いてくれないし、自身の気持ちや思考にたいしての間違いだなんだってのは、誰しも否定されたくないし、そもそも医学を学んでたら確実に読めるのか?と言われたら、そんな事はないと言われるでしょう。

と、アレコレ語ってきましたが、言葉一つにしても深いだけでなく、それ故に不快にもさせてしまいかねないですし、感受性が高いというタイプであれば言葉の受け取りの時点で、一歩深い所で現実としての認識をするので、今あるブームなんかは、そんな簡単な物じゃないんですよと言いたくなるもんです。

という事で。


あとがき

さてさて。どうにもこうにも漏れてしまうと反省しつつ、まぁ、それ程に経験しちゃったんですよ、負の側面をという感じです。

フラッシュバックで...、という機会は減っては来てる物の、どうしても幼少期に限らず、持ち前の感受性の部分から色んな扱いというか、経験というか、他者が絡む部分にはして来たと同時に、させられてきたという側面もあるんですよね。

どうしても感受性の部分から、突っ込んだ感じ取りをしてますし、それはもう臨床心理士の先生によるカウンセリングで、現実を深い所で見つめすぎという指摘をされた事からも、もう敢えて見つめない様にして無かった事としてくるのも限界が来たかな...という感じです。

今回は、言葉について書きましたが、そういう部分でも色々あったんですよね。

そもそもが感受性が絡むが故の不得手として、感じとり過ぎてしまうだけでなくそれを相手側の感情も含めてなので、リーダーシップって本当に向かないタイプだったりします。

そこが普段から表れてて、引っ込み思案だったり、自身無さげな部分を怒りの感情をぶつけられながら、声がもう耳に痛いわ、感情が入って来て辛いわしながら聞かされるだけでなく、そういう部分から苦しんでる様が出てしまうので、追加と言わんばかりに悪い意味での出る杭として叩かれてたのですが...。

そうある人達が、自身が困ると、普段の真面目さや面倒見の良さの方だけを取り上げて、「頼めるのはお前だけしかいない!」という感じで。

引き受けないとそれはそれで、「困ってる人を見捨てるのか!無下にするのか!」と怒りをぶつけられる、と。

昭和だなんだっていう時代どうこうじゃないんですよね。

他の子だと、悪い部分はちゃんと評価されて頼りない、イマイチ心配って言われてましたし、それ以上に怒り露わでぶつけられる私には「お前しか頼れない」ってどういうことだってばよ...。

ほんと、言葉が軽すぎますよ?というのを、悪い意味での実体験で持ってると言うか。

そのくらいなのでね。

情報発信をするだとか、人を癒す救うだとか、そう言うならもっとしっかりせーよ。その迂闊さ軽さに、その奥にあるご都合主義に気付くから、あっという間に!

ふぅ。

という事で、感受性と言葉について。になってなさそうだけど、しばらくはどうしてもそう言う過去の経験や辛い記憶の漏れ出しって止めれないのかな?とも思います。

こうやって、記事を書いててもフラッシュバックまでは行かないまでも、記憶が勝手に呼び起こされるんですよ、ね。


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