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書くリハビリ つづき

珍しく、書いた内容についての補足というか。

そういう意味合いになる続きを書いてみようかなぁ、と思います。

否定と肯定。

言葉にするだけでなく、個人個人が感じる物として意外と簡単に感じてる人が多いのでは?と思います。

ですが、個人としては、良くも悪くも何かしらがあっただけでなく、自分自身が感じたものも含め、それは何故か?と更に広げるというね。

流れや道筋みたいなものがあってからの、肯定や否定だと。

そう考えてるので、否定的な意見として見えたとしても、話の流れを見てみると、意外と引っかかってしまってたなぁ、という経験も多いです。

そういう事があるので、個人としては思いの外、深い部分。

そういう部分を含めての、というものがあるのですが、ここがコミュニケーションの難しさ。

拾える拾えないの個人差があるので、人はときに衝突してしまうものなのよ。

そういう部分に触れようと思います。

ちなみに、元になったのはこちらです。


最初に個人として

HSPと言う言葉と、そのブームについては否定的な意見は多いです。

というか、最近だともう、隠さずに迷惑だと言うほど。

とはいえ、消してしまった記事もあるのですが、最初のうちは半年くらいですかね。

我慢しながら、やんわりと言葉の意味や、出どころに当たる情報へのリンクも貼りつつ、そちらも触れてみよう、知ろう、学ぼうという事を言ってたという背景があります。

ですが、そんなの知ったこっちゃない、と言わんばかりっていうんですかね。

どうしても、あまりにおかしい流れが出来てしまう裏には、ビジネスや、弱さから来る救い、理解、安心を悪用しての扇動というものも世の中にはどうしても発生するものです。

そして、そういう、ね。

踏み込んだ部分というか、裏側というか、そういうのも気づいてるけど、敢えて目を伏せる。

やんわり促してた時期は、同時にそういう時期でもあったので、仏の顔も3度まで、ですよ。

という事から更に。

個人としての、幼い頃の経験。今となっては虐待とされる様々な事が、日常茶飯事と言わんばかりにあったほど。

そして、そこには幼いからという侮りだけでなく、侮ってるからこその失敗=足元が掬われてしまったことによる逆キレというのも、さんざん受けてきてまして。

それが精神的な病みどころか、人の世の様が被る程なので。

耐え忍ぶのは、もう止めましょう。

忍ぶために隠してた、刃を心から抜くしかございませんね。

個人的な都合でもありますが、良くも悪くも、真面目だ、お人好しだと言われる部分には、感じ取れてしまうからこそ、そうやって目を伏せて耐え忍ぶという事も出来るくらいです。

そういう、ね。

感受性が高ければ、気づく、感じるだけでなく、それを元にしての予測の範囲も広く出来るんですよ。それ程に、感じすぎてしまう=受けた影響から情報を抽出すら出来る。

個人としては、そういう部分もあるので、ね。

そういう部分を解き明かそうとしてる心理学の部分に触れないのなら。

そこの狙いについての予測も含め。

バッサリいくしかございやせん。

個人的な都合とはいえ、それなりに流れや道理を見た上での。

自分であるからこその、説明や根拠も用いて、やってみますよ、ええ。

そういう部分からの否定的、だったりします。

うん。


とはいえ、それは個人の内に対してのもの

そうなんです。

否定をしてるとはいえ、自分自身が見聞きした、感じたものに対しての否定をしてるだけだったりします。

ただ、それを表に出せば、自分自身もそうあるように、受け取り方は変化するもの。

なので、この記事に限らずとも、自分ではない誰かの書いた内容が、自分に対しての否定かつ攻撃だと、錯覚するのも、受け取り方の違いと言う部分は否めないと思います。

うん。

そもそも、人それぞれ感じ方が違うからこそ、否定も肯定もなくしきれないし、何が正しいのか?と言う部分については、絶対が出せないんですよね。

触れにくい内容ですが、唯一神として扱う宗教とかが、そういう唯一であるがゆえの絶対性を前に出すので・・・というのが歴史からも見て取れるほど。

なので、否定もされれば、肯定もされるし、それをされたことで絶対はないので、感情が高ぶっても、少し落ち着く必要はあると思います。

個人としては、一気に文字化して記事にしたためつつ、それで冷静さを少なからず取り戻せるので、

「流石にコレは、個人的が過ぎるなぁ、公開はやめにしょう」

という形で、記事を消し、自分自身の中の感情も一緒に削除しましょう、という感じです。

それが、この様な書くリハビリという記事の裏側だったりもします。

良くも悪くも、自分自身が否定をされ続けてきて辛かったので、必要以上には出さないように配慮をするわけですが。

記事を消してしまってるし、公開もしてないので気づけ無い。

それは仕方のないことです、うん。

逆に、それ程にあるので、記事に書いてる時には、個人としては相当なものともいえてしまいます。

なので、結構怒ってるどころか、怒り心頭だし、最近はもう辛すぎるが故に凶行に走る自分が想像できてしまうので、意識して強く抑えるということが少しだけ増えてます。

まぁ、そうやって、行動を起こすにしても、安易に突っ走ることが少ないタイプ。

それ故に優柔不断とか言われもしますが、買い物をするときにいつまでも、二者択一が出来ないという、優柔不断さとは違います。

好きなことを言うにしても、言葉が他者に届いてしまえば、それは自分だけのことにはならないので、配慮をしようとしての、熟考なんですよね。

そして、そういう言葉が届く云々も、コミュニケーションです。

なのでまぁ、厳しい物言いや否定的な意見も、自分の中に発生してるものに対してという部分は必ずあります。

他者に向けてる様で、自分が見聞きすることで、自分の内側に入ってきてる部分っていうんですかね。

ちょっとこう、細かすぎるかも知れませんが。

動画にしても記事にしても、本気で否定しようと思えば、引用しますもの。

ほんとこう、ね。

辛ければ辛いと言うから。個人として、日常でもこういう表現をしますがホントそうなんですよ。

そういう事をする時は、相手に、他者にわかりやすいように。

それは受け取ってもらえないかも知れないけど、個人としてのするべき配慮として、そういう事をしてます。

逆に、否定的であっても引用しない事も多いのですが、それは、相手には相手の言い分があるので、余程ではない限り、引用で直接否定なんて出来るものではない、と。

こういう感じでね。

ミルフィーユかよ!お前の思考は!

と、思われるかわからないですが、結構折り重ねてますし、それ故に深度というものがあるんですよ。

と、言うのは、今回触れておこうかな、と思ったので追加にしたためました。


人間それ程に難しい

そうなんですよ。簡単のようで難しいんです。

無意識と言う部分に、下手すると触れかねないほど。

こういう、ネットや文字だけだと分かりづらいですが、実際に対面してる、周囲に人がいる状態だと、

もう、目つきが相手を○しそうな程に怖い

と、言われることも、極稀にですがありました。それ程に怒ってるので、目がそういう目になるんですよね。

目は口ほどに物を言う。

口では言わないけど、目が言ってるだけでなく、相当に漏らしてるので流石に周囲も気づく、と。

また、表面ではなく深い部分から出してるせいか、周囲はもうそろそろ・・・と思っても、止めに入れないそうです。

なんか、自分が○されそうに感じてしまって、近寄れない。

へー、そんなつもりはないけど?と言った所で、怯えます。高校時代から付き合いのあった友人で、そんな感じ。

と、どうしても、思い出話が増えてしまうのは、申し訳ないと思いつつ、話の筋を戻しましょう。

良くも悪くも、感じ取れる幅が広いだけでなく、深さっていうんですかね。

表面的とか、少し踏み込んでとか、そういうのも一瞬で受け取ってしまうんですよ。

かと言って勢いでいえたものでもないので、根拠になりそうな情報なんかも取り入れた上で、記事を書くようにはしてます。

それ程に人間て難しいですし、

その難しさには感受性というのも絡んでますよ?

そして、こと対人となると、対面だろうがネットだろうが、個人としては経験値や記憶として残ってるので、それなりのパターン化もあって、安易に触れすぎてるHSPの内容については、バッサリいく、と。

言い方悪くすれば、敏感と言いつつ、感じ取りが出来てなくて、薄っぺらい。

そういうのも、すぐ分かってしまうんですよ。

ただ、それでも上でも書いたように、相手には相手の言い分があるので、と最初は、敢えて自分が引く、我慢をするという方に動くんですね。

現状では、うつ病というだけでなく、障害者手帳もあるので就労継続支援B型事業所を利用してます。

その事業所での担当者さんや、そういう事業所との間を取り持つ市が指定してる別の担当者さんも居るのですが、

「ちょっとそれは、病んでるのに、負担抱え過ぎなのでは?」

と。

こういうネットの記事ではなく、実際の生活の方でもそういう感じなので、指摘されるくらいなんですよ。

引く、我慢をするというのは、慣れていてもやっぱりストレスありますし、通院してても改善するどころか、寧ろ悪化してそうという感じなので、そう言われてしまいます。

うん。

でも、これがね。

自分自身としてはすごく難しいんですよ。

ホント、なんでこうなってるのか?と自分でも嫌になるほどなんですけどね。

という部分に次は触れてみたいと思います。


どうしても影響してくる処理と言う部分

ただただ、感じ取って辛い苦しいで終わらないですよ、ホント。

それ以上に、現実としての対処。

自分がどうこう以上に、現実というものに対処するように、処理されてしまうっていうんですかね。

そこが厄介なんですよ。

そもそもです。

個人として、若干触れてますが、1歳の時点でおかしかったくらい。

その時点で、言葉の理解以上に、何かを見聞きしたからなのか?年齢以上の配慮をするというのが日常だったそうで。

そこにこう、幼い頃の色々が加わって、自分から一歩引くどころか、寧ろ周囲からの圧力で引かされる事が年齢が上がるごとに増えていきましたしね。

ほんとこう、同級生もそれなりにいるのに、私だけ呼び出されて、話し合いをさせて欲しいと言ってるのに、大人が取り囲んで、普段見せてる良い特徴を唱えて、誰もが嫌がる役割を受けさせようと迫ってくる、とか。

学級委員なんかももう、ほんとひどかったです。

正に、スケープ・ゴート。生贄の羊状態。

なので、否定による、虚無感の発生の機会が多くなりすぎて、早い段階で将来どころか、人生すらも諦めるようになったんですよ。

事情があるとはいえ、長男で跡取りと言う部分でも、将来の希望を言おうものなら、明らかにNoを突きつけるのが多数派で。

それだけでなく、幼いからと私に言わなかったのを、母には言っている事に気づいてましたからね。

正直、このへんは、申し訳ないけど。

母も幼い頃に、そういう主張をしていたという部分があるのはわかります。でも、だからといって家を出て嫁いだ側がイチイチうるせーのよ?と。

言おうものなら、これまた母に矛先が向いてしまうので、いえなかったんですよ。

なのでこう、亡くなるまでは、色々ありましたが、母と二人三脚と言う感じで。

でも、母にとってはやっぱり息子。就職先とかは私のほうが断然有利だったし、金銭面での支援も就職してから、時折やってたこともあったからか、守られてたのは自分だったと。

うん。

これでもまだ、出しきれてないどころか、上辺も良いところです。

というか、酷すぎて出せないんですよ(笑)

まぁ、そんな感じなので、時代が変わったとかそういう言われ方も受け付けないし、好きにすればいいって言われても、地がそうじゃないので出来っ来ないんです。

また、それではダメだとも思うのでやろうとするのですが、えずくし、涙もでるし、動けなくなるという、体のほうが拒否してしまうので、ね。

どうしようも、ない、と。

そんな感じなんですよね。


個人として

否定にしろ、肯定にしろ。

それどころか、時代が変わったなんて言うのも。

そんなの関係なく、全部、人間です。人なんですよ、問題点は。

様々に違うので、一括とか、一辺倒には出来ないものなんですね。

それなのに、一括にして押し流そうとする。

個人としては、「時代が変わったんだから貴方が好きにしても」というのも、

それは言ってるそちらの意見、価値観でしかないでしょ?にしかならないんです。

寧ろ、好き好きに言って抑えつけてきた人たちと変わらないんですよ。

特定の価値観でくくって、そうあれと言ってるだけで、私がどういう人なのか?ではなく、価値観がそうあるから、そうすればいいとか、ねぇ?

個人としては、無責任甚だしいとしか、なりません。

また、こういう記事で書いた内容を聞いた上でだと、あんた話の何を聞いてそういう事言うの?です。

それは何故か?

受容と共感がないんですよ。

コレってすごく難しくて、してる側がしてるつもりだとダメなんですね。相手に問いかけたり、様子を伺ったり、感情の機微から見定めたり、と。

相当に難しいんですよ。

それが出来てるから相談上手、そういう評価をもらえる個人でも、難しいというくらいです。すごく真面目に。

そもそも、評価されるのは、あくまで出来てることが多い。比率としては良い方が多いというだけで、失敗やミスと言う部分もあります。

そういう部分も、こっそり1人で整理して、あそこでミスしてたんだなぁ、うわー、私ってサイテー!ってなるくらい。

そして、失敗は成功の元、失敗は成功の母。

そう言わんばかりに、次にまたそういう機会があれば、ちゃんと現実を見定めて、失敗することでのデメリット、精神的な傷を回避しようと。

成功か?失敗か?以上に、現実としての対処を兎に角がんばろう。

そういう風になるんですね。

また、そういう部分があるので、自分の主張という主観が聞く部分では良い悪い、正しい間違い、肯定否定はありますが、その時その場では一切ないんですよ。

一体何があって。

どういう流れがあって。

どういう人が居て。

どういうやり取りがあって。

その時その場でしか、気づけない、感じ取れないものがあるからこそ、一定の基準を持たずに、その場での対処を心がけてます。というか、自然とそうなるほどです。

なので、おかしいって言われてしまう。

まぁ、良くも悪くも、HSPブームについてはこういう自分に対しての見直し、見定めと言う部分では、いい機会にはなりました。

でーもー。

ふざけんな、YO!と思います。

どこが敏感やねん、と。

生きづらい、生きづらさってのは、環境由来=現状なら感染症による様々な状況や世の中の流れだけでなく、個人の行動や嗜好への強制的な抑圧・抑制がかかってるので、生きづらいのが

あ・た・り・ま・え

です。

あと、自分が傷ついたとしても、状況や相手、事の次第、流れはどうだったんですか?

自己愛が強い人って、何がどう合っても、悪いのは他人で、可愛そうなのは自分っていう判断っていうんですかね。

なんかこう、周囲や自分以外が見えてなさすぎる、とも言える言動をホイホイするんですよ。

そういう、傷ついた経験を生きづらさとするのも、正直、酷いです。

無知は罪という、言われもあるくらいですし、知りすぎるのも知らぬが仏なので悪さをしますが、知らなさ過ぎるのも悪さをします。

そして、HSPだと主張するなら、そういう部分をあっさり検知出来ると思います。

人間、生きていく上で、集団に属するのを回避するのは相当に難しいですし、それが出来ないので色々あるわけですが、それはどういうことかというと。

人間、自分だけでは、何事も完結できない

そういうものです。

家族という時点ですら、自分と違う誰かがすぐ近くに居ますし、親元離れても友人や、職場の人、恋愛上のパートナーという感じで、常に誰かしら居るものなんですよ。

それなのに、ね。

相手の事情、相手の都合、相手の様子、相手の反応。

そういうのを感じ取れてないのに、敏感ってのはお粗末です。

また、出来てることでも、出来てるつもりでしかなく、周囲が一歩退いてるかも知れない。

それが人の世なんですよ。

ほんとこう、振り回されるという表現をHSPって言葉にひっつけてるのを見けると、頭痛いくらいです。

寧ろ、振り回されてるようで、こっちがコントロールしてたりしますから。

しかも、それに気づける人ってそうそう居ないです。

事が済んで、内訳ばく露したら、え?お前そんなことやってたの?って言われることもありますし、相手の為になるのであれば、敢えて悪と言える行為すら行いますよ。

でないと、安心を得れなくて、感情的になり、崩れる人って居ますから。

それほどにあるので、おかしい、と。

言われるんです。

お前は人のことが見えすぎだ、と。

いや、普通に見てるだけできづけるっしょ?

ありえん・・・・。

こういうのも、何度繰り返してきたことか。

それ程に、感受性って武器にもなりえるものなので。

弱い私可哀想なんて人は、ちょっとこう、自己愛性とかそういう言葉を調べて知るといいんじゃないですかね。

まぁ、目を塞ぎたくなるかも知れませんが、悪い部分だからって目を背けてたら、感受性がどうあっても成長しませんから。

ということで。


あとがき

最後の方は、凶器ぶんぶん丸というか。

振り回してますねぇ。

まぁ、書くリハビリ。

自分自身を表現するだけでなく、自分の中の黒いものを少しずつださないといけないんですよね。

しかも、その黒いものって、他者からぶつけられたものが殆どです。

一歩引く、我慢をするというのはそういうことでもあって、事によっては悪、黒でも相手の言い分を飲むから、自分の中に溜まってしまうんですよね。

それに対して、相手がそうあるだけでなく、自分にもそういう部分があるから、これは自分にとっても同じものとしてしまい。

それ故に、出しきれない物になってしまいもする、と。

母からすれば色々私のほうが過ぎてる。というのも、ペットを飼ってた時なんかも、フラットなんですよね。

人間どころか、動物すらも平等っていうか。自然とこう、家族と言わんばかりの行動をしてると見えてしまうそうです。

まぁ、私からすると、それが自分の当たり前なので、にしかならないので、何か変かなぁ?って自覚が生まれないんですよ。

とはいえ、母も似てるタイプだし、真逆とはいえ、家と存続と言う部分では被る部分もあり。

また、母方の祖父も、少しズレてそうあるというか。

ちょっと時代による悪い影響を受けすぎたせいなのか、私や母以上に人を避ける人でもあったんですよね。

そして、母方の祖母はというと。

明らかに、怒が欠如してるでしょう?と言わんばかりに、怒る姿を一度も見たことがないくらい。他者どころか、自分の娘達が怒っても平身低頭が自然体なので、怒ってるほうが気づいて、自然と怒りが収まっていくというような人で。

あくまで、可能性としてではありますが。

どうしても人を避けてしまうことがある。

感情が湧いても、一歩退いてしまうこともある。

流石に怒りはするけど、コントロールもできるし、自分に向けられてない周囲には、とりなして収める方に持っていくこともある。

遺伝って部分は難しさもありますが、直近を見ても、なるほど、私はそうあって生まれるのも、ありえるのね・・・。

そんな感じだったりします。

また、可能性として言及するなら、そういう遺伝的な部分で、取捨選択がなされたからこその、私の感受性っていうんですかね。

そういう、見方もできなくない、と。

そして、こうなると、それこそ自分以外の誰かが居たから、今の自分が居るという、ね。

彼を知り己を知れば百戦して殆うからず、ではないですが。

ほんとこう、もう少し自分以外に目を向けて言及してくんないかなぁ、と思いますよ。

ということで。


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