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見えすぎてしまうという事

個人の感受性として、持ち前として、どうしても見えすぎてしまってるというのは、否めないどころか、もう受け入れざるを得ないという所まで来てしまってる。

自分自身だからこそ、実感出来るし、確認出来ることではあるものの、どうしても可能性や想定として見えてると言う部分もあるので、少なからずは否定して、過信という部分に対してのバランス取りもする。

なので、見えてしまうがゆえに、自身の内側は結構複雑なものになってたりします。自分ではそうないだけどねー。

口にしたり、表にだしたら、いろんな形で過ぎてると言われてしまう。

伝わりづらいかも知れないけど。

見えすぎてしまってるという判断に至るまでの部分を書いてみようかな、と思います。

という事で、感受性に関わる部分なので置いておきます。


実際を言えば…

見えすぎてるというより、一瞬で把握する、わかる、という感じが実情だったりします。

と は い え。

人の頭の中って覗けないですからね。対人関係では、どうしても過信や決めつけという所から、あくまで可能性、あくまで多分程度に薄めるために、不思議と見えてるという話にしたりします。

逆に言えば、それ程にあるので相談にしても、教えるや指導にしても、上手くいくというのは否めません。

また、何度か言及してますが、見た、聞いた事で、頭の中で勝手にイメージ化され、それがドラマの様に再生される。

そうあらない人には不思議どころか、ありえないにすらなるわけですが、こういうのも自然と自動思考としてやってくれるんですよ。また、ここを更に踏み込めば、自身の経験があったが故の他者との向き合いもあるし、更に踏み込めば自分との向き合い、という感じで深みにハマって行く感じ。

そのくらいに在るのですが、そうある自分自身ですら、何でこんなに...というくらいに自然とやり過ぎてしまうのも否めずで(笑)

今となっては、おかしいって言われて当然だよなぁ、と流せるようになってきてる感じもありますし、そうなったのも、所謂見えすぎてるが関わって来てるのは確かです。


イメージとしてこなす部分

見た聞いたした事から、自然とイメージが湧く。

こういう部分もあるので、見えすぎと言われるだけでなく、気がつき過ぎ、それが転じて気にし過ぎ、色んな言われ方をします。

ただ、イメージは所詮イメージ。私個人の頭の中で発生してる事。

そういう部分で、当たってる、おおよそ言ったまんまという解答を相手や他者から得てるという経験もあるのですが、これはあくまで結果論

現実として、そういう答え合わせが出来てしまったというだけ、という話でもあります。

なので、過信は禁物、油断は大敵、過ぎたるは猶及ばざるが如し、という感じに個人が仕上がってるという部分に繋がります

そうしておかないと、スタンド攻撃は実在する!とか、意味不明な事も口走りそうですしね、私って(笑)

ネガティブをぶつけられた時も、実際に体の方が、大きな音を聞いた時の様なビクッ!とする感じ、眩暈やクラクラ感を覚えるのですが、あくまで現状ではそういうイメージから体が錯覚してるのだ...と自分がまず否定するんですよね。

人の体なんて、宇宙の暗黒物質みたいに観測しようとすれば、体にダメージが行きかねない。X線とかレントゲンとかですら、放射線ありますしね。なので、専門の技師が付くものです。

うん。


幼い頃からそうあるからこそ...

こういうのも、幼い頃からもそうあったというか。

成長に合わせて精度が上がって行った、という所もあるにはあります。そういう意味では、制御もくそもなかったし、良くも悪くも自身が発達してないので、自分の内側すら観測しきれてなかったという部分もあり。

だからこその、自身であるから自身を否定するものです。

今現在からは、過去を振り返る事しか出来ないわけですが、自分の至らなさ=精度の低さも記憶から観測出来る程ですし、だからこそ幼い頃は失敗も多かったとも言えるもので。

自分であるからこそ、今の自分の立場として、自分を否定する。

客観視どころではない、幼い頃の自身の主観を今の自分が客観的に否定する事で、その事実を受け入れられてる=失敗は失敗と認め、自身が改めるというのは今でも発生してます。

ほんとこう、ここまで来ると自分でも頭の中が、こんがらがるというか。

頭がオーバーヒートしてプシュー!ってイメージも湧いてしまう不思議。

まぁ、自負とかはなくも無いですが、それもし過ぎると凝り固まったプライドにもなりえるので、何はともあれ、あくまで自分自身はそうあった、そうあるという感じでね。

幼い頃からそう、といいつつ、でもそれは私自身が個人としてそうあった、というだけにしようとする感じもあります。


HSPや感受性という言葉の認知

これからは広がると思いますし、それ故に自身のそういう部分に気付けるという人も出てくるでしょう。

ただ、何はともあれ、何がどうあれ、幼稚園~社会人どころか、メンタルやんで落ち込んでても、それが観測されると、過ぎてるだなんだ言われますし、共感性が高いという言い方になる事もあります。

他者からの指摘として、ね。

とはいえ、ここには盛大な落とし穴があると思います。

HSPのブームがそうあるというか、上辺だけだとやっぱりダメなんですよ。自分が当てはめる、自分からハマリ込もうとすると言うのは、

向き合えてない、掘り下げすらしてない

というのは、観測出来てしまうんですよね。

ただ、そういうのも個人としてですし、その部分には成人知能検査を実施した際に、言語性については数値の外、表せない部分もあるから、そこで収まってるという評価もされたくらいで。

まぁ言うなれば、言葉に対して凄く反応を示しやすいタイプです。

そして、言葉についての自身も掘り下げだしたら、ここに書ききれない程になるもので。

不思議と、話を聞いてる中でのポイント、重要な部分というのは自然とピックアップされる、強調された形で受けとる、というようなところもあります。

これはもう、どうしようもない程に把握できないので、脳という未だ未解明が多い箇所が自然とそうしてくれてる、そんな感じでの表現になるというか。

応用すればオーケストラでの音楽を聴いてる際に、バイオリンとか弦楽器が好きなので、そこの音だけ拾い上げて強調させたうえで聞く、なんて事もできたりもします。

ちなみに、そういう場合はその他の楽器は正にBGM。バックグラウンドとして一応聞こえてます。

と、こういうのも、ね。話しても伝わりづらいというか、そんな事出来るの?あんたちょっとおかしすぎじゃない?って感じで、おおよそ同様に出来る人ってそうそう居ないんですよ。

相談上手、聞き上手というのも、相手の微妙な感情の機微でそういう言葉のピックアップがなされるし、そこから”多分だけどこれを言いたいのかな”で話を進めてると、何でそんなに話を聞いてくれるのか?、繰り返せば何であんたはいつもそうあってくれるのか?という相手側の疑問になったりしますしね。

こう言うのは、音に対して、声に対して、言葉に対して、そういうい色々で感じ取れる感情の機微に対して、そして人=他者に対して、誰がどうこう以上に、私が見せる不思議さ、奇妙さに繋がるもので、そこには聞き取り、感じとりが見え隠れするからこそ、感受性が高いと言われる

まぁ、その、そういう自身であるからこそ、

情報としての特徴なんて、自分で解説して合わせる事すら可能

なんですよ。うん。

特徴に自分がはまるんじゃなくて、自分で解説して自分自身にその特徴の方を当てはめさせるというね、真逆というだけでなく、掘り下げた分の根拠があるからこその力技すら出来るのも、感受性の作用です。


どうしても知りたくなる

誰が何といおうが、他者から指摘されたものであろうが、違和感を感じると、どうしても知りたくなります。

何故そう言われたのか?

何故そう言われるのか?

何かを言うからには、根拠、意図、意識があるのですが、それを言った側から聞き出そうとしても、強引さが出かねないので、自分で掘り下げる事になる。

言い換えれば、自他関係なく、個人=一人の人に対しての言いよう、言い分を研究するという感じですかね。

こういう部分は、そういう道に進まなかったけど、そういう性格をしていたとも言えそうですが、どうしてもおかしいおかしい言われるばかりというのが幼い頃からの常だったので、疑問を感じて知ろうとするのも当然とも言える。

中々に難しい部分があったりします。

また、そこに踏み込むからこそ、深み=深淵がある、みたいなね。

そして、そうあるからこそ、時として自分自身が困惑したり、混乱したりもしますし、自分で起動修正しない事には、その深淵に飲みこまれてしまうという事にもなると思います。

そういう部分を言い表したのが、知らぬが仏

知りさえしなければ、無駄に感情を自分から逆立てる事をしなくて済む。

そういう部分もあるんですよ。

まぁ、知ってしまったが最後。その先を知りたくなってしまい、踏み込んで行ってしまうのも、個人としては感受性が絡んでますし、その作用もあるかなぁ、という言及は出来ます。

また、そうあるからこそ、知ったレベルで足を止めて、自分に当てはめるというのは、おおよそその辺の普通の人と、感受性が変わらないとも、言えてしまうのですよ。


あとがき

鶏が先か?卵が先か?ではないですが。

そういう感受性を持ってるからこそ、そう言う人になったのか?

もともとそういう人だったからこそ、感受性が働いた、伸びたしたのか?

自分自身が未だにブラックボックス、なんですよね。

他者からすればおかしいなんでしょうけど、自分自身はそうあるのが当たり前なので、そこに他者主観での色々を当てはめられても、困るだけでしかない。

だからこそ、自身で知って学んで、考えて掘り下げてと、先へ先へと踏み込んで行く。

それが、幼い頃からの人生に付きまとう側面でもあります。故に、経験値もそれなりにあるというか。正しい、間違いという話では無くてね。

申し訳ないけど、自分はHSPですって言いつつ、自分がそうある根拠をつらつらと話さない、表現しないまま、こういう人はこうとか言うのは、相当に無責任が過ぎると思います。

感受性が高いって事は、相応に周囲から分かってもらえない、理解を得られないという経験もする側なのに、自分を知ってもらおうとしないってのは、どういう話ですかい?

なんですよ。

そもそも、上辺だけの情報やブームで流されるというのは、HSPに限らず悪い側面って必ずあります。精神疾患が取沙汰されて久しい世の中ですが、知ってもらえてないからこその誤解って相当に目にしますし

そう言うのを見て、感じてしてれば、今のブームに乗っかるなんて出来た物じゃないというか。

単純に人に向き合うだけでなく、そういう情報や言説にも向き合ってしまうんですよ、自然とね。

環境の中にあるのは、何も人による色々だけでなく、物の置き方が悪いとか、構造として足を引っかけそうとか、そういう部分があるから人がつまづいてトラブルにもなりかねない。

やろうとしなくても、自然とヒヤリハット事例に対して向き合ってる。そんな感じも、個人としては自分自身から感じてます。

そして、そこから可能性や想定とい、危険予知活動(略してKY活動)みたいに、見取った物から想定される、回避した良い物を先んじて回避する、芽を摘みに行ってるただそれだけ。

それが、そうあらない人からは、気を遣い過ぎ、という評価にもなる。

また、自然とそうなる事から、生存本能やそこからの危機回避なんて話もできてしまう。

ホントこう、ピクッ!って体が瞬時に反応する事もありますし、それ故にどうしたの?と聞かれてしまい、今何かが...でおかしいと言われるも、本当にそうなってやがる!どうなってんだ!

掘り下げた先として、人間すら生物、動物なんですから、本能もあるし、当然でしょ?まで行ってしまうってね。

良くも悪くも、技術の革新にしろ、科学の進歩にしても、行き着く先はそういう、生き物としてとか、今ある世界としてとかそういう部分にもなりかねないんですよ。

良くも悪くも、時代がどうあれ向き合って来た分、良い悪い両方にも扱える想像力みたいなのも持ってます。

なので、知ったなら、そういう自分を育てる。

そういう風に使うと良いんじゃないかなぁ?

感受性って、人の内側の話なので、それこそ膨張を続ける宇宙みたいに際限のない世界でもあると思います。

そこを、ね。自分自身が自ら開拓者になって、開拓していかないと。

勿体ないと思います。

でも、難しさや、困惑や混乱から来る困難というのもあるので、覚悟も必要なんですよね。

そこについては、あくまで可能性という感じで、絶対とか確証というこだわりを持たず、まぁ可能性だし、世界の変化を待ってればいずれ分かるかな、という感じにも出来ます。

実際、そういう時代に伴う進捗や進歩から、私は個人として答えを貰ってますし、ね。

何でか不思議と、現実が回答を指し示してくれた

って感じることもあるんですよ。

という事で。


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