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書くリハビリ

うーん。うーん。

何というか、少しこう、冷静さというものを。

持つのではなく、冷静さとは一体何なのか?と、考える時期に来てるのでは?という思いはどうしても否めないというか。

こういうのも、幼い頃には不思議で仕方なく。

成長するに合わせて、様々な影響を受けつつ経験したことで、どうしても。

欲に支配されてしまってるのでは?

という見方をするようになってしまったんですよ。

うん。


あくまで個人として

良くも悪くも、というのは面倒なので。

色んな意味で、見え方や聞こえ方、感じ方だけでなく、そうあるからこその掘り下げがあらぬ方に行くどころか。

色んな方向にいくので、オカルトにも寄れば、寄りはするも、見えてる現実という現実に対する向き合いからは、逆方向とも言える科学的、論理的という方向によりもします。

まぁ、そういう部分もあるので。

敢えてひっくるめて、どうにも否定されると言ってますが、深く触れてる人からすると・・・。

流石に度を超えすぎてて、追いつけない、というような。

僅かではあるものの、いい意味での否定というんですかね?(笑)

余りにも真剣に追っかけすぎてるので、呆れるという事もなきにしもあらずだったりします。

こういう部分を含めると、兎に角ぶっとんでる。

ぶっ飛びすぎてるので、抑えて出さない、という側面もあるんですよね。

とはいえ。

幼稚園や学校、職場という所で、人の感情どうこうだけではなく、やるべき事、やらなければ事態が進展しない事という、人間以外の要素がある場所では、

兎に角否定でした。

現実より、感情で。

そして、その中には、そういう場を離れれば、少なからず受け入れてくれるという人も。

多数派に迎合しないと・・・と言う感じで、多くに混ざって声を同じくすることで、自身だけは事なきを得るという、ね。

懇意にしたいのか、否定したいのか、一体どっちなんですかい?

と、言おうものならバツの悪さから、いずれ逆ギレという、ね。

こういう部分からも、友達という言葉については、一体どういうものなのか?どういう関係性なのか?と考えさせられることにもなるし。

そう思ってるのは自分だけ、もしくは相手だけという、ね。

そうならざるを得ないという、難しさも常々実感しつつ過ごしてましたし、今となってはもう私が体調に出てしまうので、自身だけでなく、相手にも心配させてしまうし、その先には、ぶっ飛びすぎてて追いつけないほどにある私はどういう人間なのか?が抜け落ちることにもなる。

そういう自他ともに、今以上の関係の悪化を招くリスクと言う部分から。

例えそれを理由に悪く言われたとしても、自分が自分であるからこそ下した判断を持って、それを良しとする。

そういうタイプだったりもします。

自分自身にとっては、それが当たり前なんですけどね。


そういう自身に見えてるもの

ちょっとこう、いつもと違う切り口でという感じですかね。

HSPという言葉を軸に触れてみたいと思います。

個人としては、少なからず今のブームより数年前から。Youtubeなんかで、スピリチュアル系の動画において、エンパスだ、次元上昇だに混じって、HSPという言葉をよく見ていた、と言及しています。

とはいえ、出どころは何なのか?と調べれば心理学だったわけで。

その頃から知ってるとは言え、そういうスピリチュアル系、人によってはオカルトと同じものだったり、超自然すぎて非科学的とも見えるモノと同時に扱われるという部分から、今と同じく敢えて触れつつ、必要以上には受け入れない。

そうやって過ごしてたんですよね。

そして、何故、心理学上の言葉が、スピリチュアル系の動画で散見されるのか?という疑問を持ったので、当時でも自分なりの踏み込み、というのをしてました。

そうすると、やはりこう、ね。

ユングやフロイトという人物に行き当たるわけなんですよ。この2人に限らず、当時のそういう界隈の人は、集まって共に過ごしたかと思えば、決別もする事になるんですね。

そして、後の世となった今では、心理学者として名前が上がる2人の偉人とされるような方です。

そういう部分から、少なからず接点というか。繋がりがあるからこそ、現代でもそういう方向へのアプローチが発生するのではないか?という部分にたどり着きます。

また、決別に際し、フロイトが「オカルティズム」を拒絶するように言及したという部分からは、科学的なアプローチという相反する側も存在するのも、当然とも言えると思います。

うん。

ちょっと小難しくて、何を言ってるのかわかんねぇ!という方もいらっしゃるかもしれません。

なので、少し方向を変えてみようと思います。

弓道を学んだ経験から

何事も、基本と応用。そして、模倣。

高校生時点でもぶっ飛んでたというか(笑)

弓道というより、お前それはもう武道というか、るろ剣見てるようなやつだし、武士道なんじゃね?

と、馬鹿にされることもあったという話は程々にして。

そういう部分もあるので、情報に触れたところで、鵜呑みにしないという部分に、こういうのが関係してきます。

数学なんかで、担当教師がそういう人だったからか。

計算式という基本と、それを扱うという応用。それが数学だから話をしたことがあるという記憶もあり、勉強、学問にも話を繋げる事もあります。

なので、何事も、基本、基礎という土台があって、初めて現代でも成立しているという見方から、過去に遡るという事も当たり前のようにやります。

そうしてみると・・・・。

現代に於いては、どちらかというと科学的という物の見方の方が優勢なんですね。

というのも、視認の強さという影響もあるのですが、

現実として、目にすることで納得できる、客観的な可視化

目に見えた証拠、という形で示せるのが科学的なアプローチだと思います。

また、そういうアプローチがあったからこそ、人が感じる、影響を受けるという部分に、心理学としての環境感受性や感覚処理感受性という概念が、研究に伴う結果によって体系化され、

今、私達が目にすることで、知ることが出来る。

そういう物だと思います。

そして、こういう部分を個人としては、

やっぱり、基本と応用、そして模倣だな、と。そういう感じ方をするわけなんですよ。

そして、そこには弓道を高校生時代に部活として経験してきたので。

そういう環境だからこそ、学べることという影響をもって、私がそれを成し得ているというような。

環境感受性という言葉の内容に、環境による影響というごく限られた部分であっても、繋がりはするのではないかな?と思います。

また、言い換えれば。

個人として学んだだけでなく、それをもって個人レベルとはいえ追求し、扱うことが出来るという、ポジティブ方面での影響ではないかな?とも思います。

というのも、ね。

同級生も同じ様に経験してきたはずですが、こういう話をすると、

真面目だなぁ、おかしいなぁ、ぶっとんでるわ、と。

様々な声は上がるものの、同じことをしようとはしない、人によっては出来ないとも言うほど。そしてそれは、大して影響を受けてないという話にもなる、と。

話してみたけど、だからどういうことだってばよ・・・と余計に混乱しそうでもあるので、ひっくるめてみましょう。


HSPという言葉について

心理学でユングやフロイトという名前を見ることから、心理学という学問に対するスピリチュアル方面からのアプローチはありえる。

という、個人の見方と共に、

そうはいっても、基本と応用、模倣という弓道部での経験からは、科学的なアプローチが現代では主流。

という話に変えて、

そこから更に、

科学的=客観的な可視化を可能とするので受け入れられる

という、あくまで個人が見えてるものとしてですが、そういう線を話したわけなんですね。

そうなると。

やっぱり、心理学としての概念なので、そこの土台は何なのか?を知る必要は間違いなくあると思います。

そしてそれは、現状の日本におけるブーム。

繊細さんだ、敏感だ、生きづらいだは、HSPどころか普通の人でも、個人の経験次第では誰でも感じうるだけでなく、目に見えない感じるという部分の話しかしてないので。

明らかにおかしい。

ただただ、感情に訴えてるだけの感情論で、出どころは心理学上の概念なのに、そういうアプローチが一切ないし、そういう部分からは日本では研究がいまいち流行らない原因=学術への軽視という、ね。

厳しすぎるかも知れませんが。

そういう、学術の軽視というものにすらなりえる、感情に訴えるばかりの内容なので。

お粗末ですよ?と。

ただただ、感受性が高いって周囲から言われる程度の一般人ですら。

こういう、ね?

話が出来てしまうんですね。

なんかこう、曖昧であるがゆえに、感情に響けば心地良いという、ね。

脳における快感と、その作用みたいな部分を悪用してるんじゃね?

とすら、言及できてしまうんですよね。今のブームって。

それ程、曖昧かつ、根拠がない。

情報としては、現実から離れるどころか、乖離すらしてそうにも思います。

そういう意味では、現実的な意味をなさない方向になると思いますし、そういうのを広めようなんてのは、やっぱりこう、ね。

シオン議定書における諸問題、民族迫害の元とも言えなくもない、情報の悪用と同じものでは?という疑問すら湧くほどです。

曖昧さ、情報、流されてしまう心理、という言葉にすれば、類似しちゃうんですよね。

過去にあった現実=歴史上の出来事にすらも。

それに対しての良し悪しは、個人レベルではどうこう言えたもんじゃないですが。

個人としては疑問や違和感、何の目的でこんな事をしてるのか?という、探る切っ掛けにすらなるような、ブーム、現象だったりします。

うん。

寝た子を起こすなとか。

虎の尾を踏むとか。

HSPという言葉を用いたからこそ、普段黙って静観してるような、そういうタイプの人を刺激してしまう事にもなってると思います。

また、ね。

HSPという言葉に限らず、心理学だったり、その心理学の始まり、出どころ、土台という部分への着眼だったりと。

心理学上の言葉を扱いつつ、少々、人間心理に対して見方が甘すぎるのでは?と。

思います。

ということでね、個人としてアレコレ言うには、ちょっとこう長くて読みづらいかも知れませんが。

学がなかろうが、個人ではこういうね?

情報の深いところにすら触れるようになったというのは、情報化社会であるからこその、ポジティブな影響だと思ってます。

なのでこう、言うだけにしても。

ちゃんと、根拠を作らないことには、ただただ芽が出なかっただけで埋もれてるなんて人は、世の中にごまんといると思います。

どうしても、成功してる人にばかり着目されるので、個人の能力って日本人は下げがちなのが現状だとも思いますし。

そういう意味では、ね?

HSPって言葉知ったなら、それを扱う以上に、情報を探ることで世界どころか、過去にすらも行けなくないので、うまく活用したほうがメリットになると思います。

タイムマシンつかって現実的に触れようとしても。

そもそも、時間自体が、天体の動きで発生する光の影響、それで発生する影の動きに対し、客観的な事実から肉付けしただけのものであって。

時間ってどこにあって、過去はどこにあるのか?

を見つけられてないのに、タイムマシンだけに言及するのは、理想論甚だしいと。

可能性があるにしても、まだまだ理論上ですし、可視化という部分には至ってないとも思います。そんな中で、宇宙の暗黒物質より、タイムマシンが有名なのは、様々な映像作品の影響なのでは?

と、個人的には思います。

そして、こういう部分は。

今でこそ、可視化されるので有る事になってる分子や原子も、過去には存在が可視化されてないので、無寄りの存在だったという事実が有り。

更に別の視点として、宇宙の暗黒物質(ダークマター)については、データが取れすぎてしまってるので、可視化を目指しての実験が世界ではなされてます。

という、ね。

有無なんてのも、科学的なアプローチとそれによる発見、可視化をもってひっくり返るんですよ。

とはいえ、現実を見るとどちらが現実的か?となると、暗黒物質の方。とはいえ、有名だったり望まれるのはタイムマシン。

これは矛盾ではなかろうか?なんてね。

現実見てるだけで、ここまで掴めるんですよね。

まだまだ未確定だったり、個人としての限界で深堀り出来なかったりするので、不確かな部分があるのは、確かにそうなんですよ。

それは否定しません。

ただ、それだけを理由に、全てを無くす、悪しき物にするというのも。

逆に不確かさが目立って、出来ないことだと思いますよ、と。

そういう話も出来てしまう、と。

・・・・・・。

そんな感じで、色々こう書いてきましたけど、ね。

やっぱりこういうのって、おかしい、とか言われるんだろうなぁと思いつつ。

それをもって、今回の内容を締めようかな、と思います。ではでは。


あとがき

ただただ、周囲からどうしても、そう言われてしまう。

とはいえ、自分自身ではこれが当たり前で普通で、日常レベル。

なのでこう、ね。

自分では、なんでこうなるの?と。

ただただ、個人の違いの範囲だとは思う思います。あくまで自身としては、ですが。

とはいえ、違いの範囲にも差があったとしても、違うことを理由に、目の前にいる個人の言動や行動、様子という現実に対して、個人そのものが否定とも言える扱いをされるのは、やっぱり不思議です。

そこには、こう、ね。

目に見えないとは言え、ネガティブさってありますし。

かと言ってそれで揺れた感情のままに対抗すると、衝突にもなりますし、それによって周囲に居る他者に、不快感という影響を与えてしまうのも事実です。

それが分かるほどなので、自分が受け止めてるだけであって。

真面目でもなんでもなければ、現実に照らし合わせての対応なだけ、と。

真面目って「お嬢さんを僕にください!」みたいに、面と向かって、真剣に、相手の目を見ながらという部分から、真剣さを示す意味での真面目と。

そういう行動で丸く収めるだけでなく、後々評価されることにもなり、そこには誠実さ、真摯さ、優しさというような部分がある。そういう意味からの真面目という、ね。

2つの意味があるので、真剣さと、そうあるからこそのポジティブな部分への評価だと思います。

それに対して個人としては。

ポジティブもネガティブもクソもない、ただただ現実を持っての判断と行動なので、優しくしようとか、真剣になろうみたいな、意思や意図が皆無なんですね。

更に言えば。

目に見えて、耳に聞こえて、見えなくても感じ取って、という部分から、自然と行動をこしてるだけでしかないんですよ。

自然と行動に出れるほどに、脳が処理しちゃってるので、どうしてもオカシイ行動に見えるかも知れないですが、自身の行動なので振り返ると、

こういう判断をしました、と脳が提示してくれるんですね。

正直、自分としても、なんでこうなるかなぁ?と疑問に思うし、何度と無くあれこれ踏み込んだ結果、踏み込みすぎたので、無意識とか深層という部分に踏み込んでなくもない、です。

ただ、時として。

それ以上に深い部分、踏み込めなくて掴めないほどに大きな大穴から湧いてでてくるような、どうしようもない部分なんかも出てきます。

また、共感なんかにも、自然と見える、聞こえるで脳が判断した部分から、相手にしたら「なんでそこまでわかってくれるのか?」と。

喜怒哀楽、どれにしても感情が昂ってるときには気づかないけど、冷静になると、何であの人はこういつも踏み込めてしまうの?というね。

疑問になるようです。

そして、こういう部分も、見る、聞こえる、感じ取るという部分から、自然体でそうあるので、下心アリみたいに見られることもないんですよね。

なので、出来すぎ、とも言われます。

更には、自身においても目にして、耳にして、感じ取っての行動でしかないので、意識や意思、意図をもって、慰めにってるという行動ですらないんですよ。

ただただ、敢えて一括にすると、感じ取ったからにまとまるので、それを便宜上使ってますが、やろうとしてやった、だから出来てるすらもない、それ以前の直感的とも言える行動なんですね。

また、言葉が少なくても、受容や共感というのを相手が感じてるのか、だからこそ、不思議だ、おかしいだ、ありえないだ、という相手からの否定にもなることすらある。

共感という部分では、ちょっとこう出来すぎてる感あるので、否定されるのは止むなしという部分はなくもないです。

うん。

本当はこういう部分って、今までの現実の中での生活に置いては、どちらかというと悪さ、に働いてたりします。

一つ一つだと良い悪いはその時その時で変化するものの、それを離れて総じて個人としてみると、おかしすぎる。

そのおかしすぎるは、自分の理解の範疇を超えてるというだけでなく、そういう部分からの本能的な敵視や、攻撃という部分も否めないケースが多いです。

なので、そういうつもりはない、と言いつつ、言ってる側が掴めない、目を背けてると言わんばかりで、ネガティブ増しまし丼になる、と。

おかしい、と言うほどに違う。

そういう相手に、ねぇ?

噛み付くのは良いんですが、都合の良い時は無駄に褒めちぎったり、評価したり、スケープ・ゴートのように扱うわけですから。

無責任なのでは?と。

向けられる側は、そう感じて当然なんですけどね・・・。

なにはともあれ、過ぎたるは及ばざるが如し。

とはいえ、トホホ・・・(´・ω・`)なんですよね。

ということで。

最後にまた漏れましたが。

やっぱりこう、自分に焦点を当てると経験だけでなく、個人としての感情や疑問が漏れてしまいもする。

だから、抑えてたんですけどね。

もう、抑えようとすると、体が拒否するので。

長くなっても書く時は書くのかなぁ、とも思います。

ということで。

ここまで読んでくれる人がいるのであれば。

長々とお付き合いありがとうございました。

そして、お疲れさまでした。

ではでは。

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