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【GLAY】過渡期

私が初めてGLAYのライブに行ったのは、2000年のHEAVY GAUGEツアー前半の盛岡市アイスアリーナ公演である。

2000年のGLAYがどんな状態であったかご存じの方はお察しかと思う。
もし同じ境遇の方がいて、今もGLAYファンでいらっしゃるならば…
「初ライブがヘビゲ!しかも前半!よくぞ今ココに立っていてくださった!」と涙で抱き合いたい気分である。
連載マンガやアニメでたまにある”そこから入っちゃダメな展開の場所”というものがGLAYの歴史の中にあるとすれば、まさしくそこだろう。

1999年、あの伝説の20万人ライブが開催された、その直後の年の暮れ。
レコード大賞受賞というキャリアを最後に、GLAYは解散する予定だった。
周囲の熱狂や様々な「記録」を求めてどんどん膨らむ期待とは裏腹にメンバーの気持ちは醒め、音楽業界の闇の部分に触れ、「そんなことなら俺はGLAYを辞める」「GLAYがかわいそうだ」といった悲痛な想いが募った末の結論だったという。

そして、心配された2000年問題も大きなトラブルが報じられることなく明けた、新年会でのこと。
この先音楽活動をするにあたって、ヴォーカルのTERUはメインコンポーザーであるギターのTAKUROに楽曲提供を依頼。
それだったらベースはJIROで、ここのギターはHISASHIにお願いしたい。

…それって結局GLAYじゃね?

解散はメンバー4人で決めたことのハズだったけれど、でも、どうして解散しなければいけないのか?こんなに楽しく酒を飲んでいるのに。
周囲の期待などどうでもいい。僕らはただ音楽がやりたいだけなんだ!
かくして解散という結論は一転した、というのはTAKUROさんの自著『胸懐』にも記されているし、随所でメンバーが語っている、ファンの間ではよく知られた逸話である。

それだったら2000年のGLAYも今まで通り明るく楽しいライブをやっていたんじゃないの?と思う展開だが、このツアーにはなんとGLAY2度目の解散の危機が待ち受けていたのだった。

そのツアーは国立代々木第一体育館4Daysから始まり、その後の地方公演の初っ端が、私が初めて行ったGLAYのライブである盛岡公演だった。
チケットの取り方も知らなかったので、公式BBSのTERU部屋で仲良くなった福岡のお姉さまに取ってもらった。
16歳になったばかりの私は、親に頼み込んで会場まで車で送迎してもらった。
その時の手記が残っている。


2000年4月22日 盛岡市アイスアリーナ アリーナ1*列6*番

ライヴ初体験。
初めてだった上にテーマが重すぎたため
何が起きているかわからないまま
テレビを見ているだけの感覚で終了。

緊張からか寒さからか、ライヴ中はずっと震えていた。
感動?悔しさ?帰りの車で会場から離れるにつれ
溢れてくる涙を抑えられなかった。
忘れることのできない、暗いライヴデビューであった。

ひとつだけ強烈に覚えているのは
じろうさんがラーメンかぶったみたいな髪型で出てきたので
誰だかわからなかったことである。


この時私が感じた、特にJIROさんのヴィジュアルの変化や伝わってくる不穏な空気の答えが、少し後に判明することとなる。
その後GLAYは仙台公演を終えて一旦東京に戻り、再び地方公演の旅に出た5月の金沢で事件は起きた。

やけに長いアンコールまでのインターバル。
最後の曲が終わって暗転からライトが点いてカーテンコールの時、そこにいるはずのJIROさんの姿がなかったというのだ。

GLAYの在り方に煮詰まり、自分を追い込みに追い込んだJIROさんがステージに立っていられなくなった。
その時の緊迫した舞台裏は、田家秀樹・著『GLAY DOCUMENT STORY 2001-2002 夢の絆』に詳細に記されている。


そこからJIROさんは再び立ち上がり、その年の11月にマキシシングル『Missing You』のカップリング曲として『TIME』を発表。
この時点では先のドキュメンタリー本もリリースされておらず、なぜこんなにJIROさんが苦しんでいるのかは、想像と憶測でしかなかった。
こちらも、なんだかわからない中でとにかく重くて暗くて苦しかった。
そして『TIME』が手元に届いたとき、「ああ、危機は脱したんだな」と心底ホッとしたことを覚えている。
タイトル曲の『Missing You』もそうだが、この『TIME』も曲自体は救いようがないほど暗い。
「その救いようがないほど暗い気持ちを、JIROさんは我々に向かって出してくれたんだな、やっと。」そう思えたから、安堵したのだ。

この頃からGLAYは、それまでの愛だの恋だのといった王道のいわゆる”売れる曲”ではなく、世界平和といったようなもっと大きな愛を唄うようになり、メンバーが本当にやりたいこと・やるべきことを模索するような方向に向かって行ったと認識している。
猫も杓子もGLAYだった時代が終わって、この時に離れて行ったファンも少なくはなかったと思う。

過渡期だった。

渦中にいた当時もそうなんだろうなと思っていたし、今振り返ってみてもそうだったなと思う。


”夢にまで見た「ライブ」が自分の夢見た「ライブ」ではなかった”というこのトラウマ的体験の反動で、このあと10年間ほど、私は異常なまでにライブというものに執着することになる。

その時々で感じたことや考えていたこともいくつか書き残してあったので、それはまた追って掲載しようと思っているのでお付き合いいただければ幸いである。

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