なぜ誕生日を祝うのか

何年か前に、誕生日まであと1ヶ月くらいとなったタイミングで、なんで自分は誕生日に他人から祝われるのだろうかと疑問に思ってしまった。本当にきっかけが全然なくて、なぜこんなことを思ってしまったのか分からないのだが、頭に浮かんでしまった以上は仕方がない。そういうものなんだと思ってしまえば楽なんだろうけど、やっぱり、すっきりはしないので真剣に考えてみることにした。

最初に、どうしてそこに疑問を持ってしまったのか、そこを論理的に考えてみた。個人的には、1番大きな理由として祝われる理由にあるのではないかと考えた。誕生日とは「生まれてきたことや無事に育ったことをお祝いする1つのタイミング」として存在しているのかなと思う。ただ、僕以外の人もほとんどそうなんじゃないかと思うけど、僕自身は別に「生まれたい」と思って生まれてきたわけじゃない。両親が勝手に作って勝手に出産したから生まれただけであって、そこに僕自身の意思というものは一切入っていない。子供の頃だって、「生きたい」とか「育ちたい」とか思いながら生活していたことは一度もない。少なくとも日本では、そういう風に一度でも思ったことのある人が少数派なんじゃないだろうか。

そうやって考えていくと、両親が僕の誕生日を祝うのは理解できる。だって両親が自分たちの意思で作ったんだから。自分たちの意思によって生まれた子供がちゃんと育ってくれたのだから、それを祝うのは不思議じゃない。ただ、それ以外の人となるとちょっと話が難しくなる。僕の存在に対してお祝いしてくれてるのはなんとなく分かるんだけど、別に僕自身の意思で生まれたわけじゃないし、僕自身の意思としてここまで育ったわけでもない。だから、それは僕をここまでちゃんと育てた親に言ってあげてほしいなと思ってしまう。

とは言え、たとえば友達の誕生日にわざわざその人の親に感謝しても困惑されるだろうし、そもそも友達の親と面識があることもほとんどないので現実的じゃない。何より当人をほったらかして親に向かっていくのもなんだか違う気がする。となると、何か現実的な行動に対して辻褄が合う理屈を見つけないといけない。

だから僕は考えた。まあまあ前の話だからどれくらい時間かけたかは覚えてないけど、でも何日かかけてひとまずの結論を出したような気がする。とりあえず出した結論としては、その人のことを生んでくれて、そして育ててくれてありがとう、という親に対しての気持ちをその親の代理として誕生日である当人に伝えるということになった。我ながらかなり面倒くさい理屈である。多分、誕生日をここまで難しく考えている人もそんなにいないと思う。もし何か違う考え方があるならそれも聞いてみたい。こんなこと考える奴なんてだいたい頭おかしいだろうから、新しいものの見方が増えると思う。もしまかり間違ってこれを読んで、こういう考え方があるよという人がいたら連絡してほしい。お話をしてみたい。

ちなみに余談ではあるが、僕は僕自身の誕生日を「生まれて丸○年無事に生き延びた記念」という名目でお祝いしている。ここ数年はディズニーだったり、ラグビーW杯に行ったりしていて、今年はジェットコースターに乗るためによみうりランドに行く予定。というわけで、誕生日おめでとう、俺。

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