赤ピッピガメミシミシの船出
カメの名前は、ミシミシ。
遠く赤ピッピからやってきた。
故郷に近い温度と湿度を求めてさまよっていたら、ある日遂にニンゲンに捕まった。
大きなバケツに入れられて。
どうしよう。
このままじゃ赤ピッピに帰れない。
前肢をばたばた動かしても、ミシミシの小さな肢ではバケツの縁に届かない。
「君、お名前は」
「……ミシミシ」
ミシミシを捕まえたニンゲンが、指先で甲羅に触れてきます。
「赤ピッピに帰るのかい?」
「帰るんだ」
ミシミシは後肢で立ち上がるようにして、ニンゲンを威嚇します。
「僕、これから赤ピッピの近くまで行くんだけど、一緒に来る?」
「近くってどこ」
「青ピッピさ」
青ピッピは赤ピッピの下流のあたりです。
ピッピ川は上流には赤土が多いため赤ピッピと呼ばれ、赤土が減った下流では水が澄んで川幅も広くなるので青ピッピと呼ばれています。
「うん、青ピッピまで行けば、たぶん帰れると思う」
「違いない」
ミシミシは小さな前肢でニンゲンの指に触れます。
握手の代わりです。
ニンゲンは、港町である青ピッピまで船で行くといいます。
「個室だからカメ一匹くらいいてもバレないよ」
なるほど。
「専用のベランダで日光浴もできるし、なんならバスタブで泳げる。スイートルームなんだ」
ニンゲンはミシミシを片手で持ち上げます。
「よし、アタッシュケースに入りそうだ」
まるでミシミシのために誂えたような、ぴったりサイズのアタッシュケースに入れられて、蓋が閉まると真っ暗で少し不安です。
「船に乗り込むときだけだよ」
他の荷物は誰かに運ばれたり、中を開けて確認されているようですが、大事に抱えたケースは貴重品と思われて誰も手を触れません。
ミシミシも貴重品のふりをして、アタッシュケースの中でじっとします。
「ついたよ」
蓋が開くと、そこはたいそう豪勢なお部屋でした。
ソファセットと、その奥にバルコニー。
言われなければ船の中だなんて気が付きもしないくらい広々としています。
ミシミシは部屋の中をぐるっと見せてもらいました。
バルコニーにはデッキチェアがふたつ。
ベッドルームも別にあります。
ベッドルームの隣がバスルーム。
洗面台もふたつあります。
その奥にバスタブと、シャワーブース。
「洗面台が二つある、ちょうど良いね」
ニンゲン用のトイレもありました。
ぐるっと見終わって、ミシミシはふかふかのソファに乗せられます。
ふかふかすぎて、バランスが取れないくらい。
ミシミシは短い4本の肢をぐっと踏ん張って、ソファの上に立ちました。
「すてきなお部屋です」
「一人には広すぎるだろうね、二人だと、狭いかもしれないけど」
ニンゲンひとりとカメいっぴきでも、十分広すぎると思われます。
「あの」
ミシミシはソファの上で踏ん張りながら尋ねます。
「おなまえは?」
これはミシミシが生まれて初めて、ニンゲンの名前を聞いた時でした。
この人はご親切だし、長旅を一緒に過ごすし、名前を聞く必要があると思ったのです。
「ジョンでいいよ」
「ジョンさん」
「ただのジョンだよ、よろしく。ああそうだ、君はなにを食べるの?」
「なんでも。雑食だから」
「それはいい」
ジョンは早速テーブルの上に置いてあったフルーツの皮を剥いてくれて、ミシミシは齧りつきました。
初めて食べるけれど、甘くて美味しいフルーツです。
そうこうするうちに船が動き始めます。
窓の外が動くと、やはりここが船だとよく分かりました。
「楽しい旅になるね」
ミシミシはフルーツを頬張りながら頷きます。
この日から、長く短くとても楽しい、ふたりの旅が始まったのです。
おもに日々の角ハイボール(濃い目)代の足しになります