ゆき
自分など生まれてこなければよかった
じめじめした空気で首の周りがべたついて鬱陶しい。空は灰色の雲に覆われて、焼けるような日の光は射していないのに、むせるように暑い。 母さんは日傘を差して、少し先をのんびりと歩いている。最近は無理やり手を繋いだり、やたら隣を歩いたりしないようになっていた。 以前、学校の帰り道に母さんと一緒に話しているところで友達とすれ違ったことがあった。クラスで人気者のその友達は、手を繋いでいる僕を見て、ニヤニヤと薄ら笑いをしながら、よぉ、と一言いって通り過ぎた。そのあと家に着くまで、僕は
背後で寝返りを打った気配がした。ぼんやりと漂っていた眠気が引いて、クリアになった視界に朝の小窓が眩しい。 起きているのか、と彼女を踵で二回小突くと、首筋をくすぐるような鼻息が返ってくる。 「……昨日、いつ頃寝たんだっけ」 「映画見始めて、すぐ。寝ますぅって自分で言ってたぞ」 そう、と彼女は呟き、気怠そうな腕で抱きしめてくる。コツコツと鎖骨を突く手を無視して、スマートフォンの画面を見ているうちに、昨晩の会話が途切れ途切れに浮かんでくる。 一杯目の酒が回り始めて
「私、思うんだよね。あなたが下駄履いてたらなぁって」 「ん? あぁ、ごめん。作業に夢中で聞いてなかった」 彼はやかんを片手に、ドリッパーから少しも目を外さない。眉間にしわを寄せ、唇の先を尖らせている表情は真剣そのものだ。 私は少し呆れつつ、作業の邪魔にならない場所に立ったまま 「あなたが下駄を履いていたら、面白そうだと思ったの」 「カランコロン鳴らして迎えに行くと、待っているんだろう。浴衣も着ていない君が」 彼の歌うような口調にむっとして、自分のTシャツの後ろを引
酒を少し飲みすぎて、友達と話し込んだ夜。 言葉は散々交わした後だと言うのに、まだ紡ぎ足りないという日もある。 友達の周囲で起きている出来事はドラマチックで、自分には縁がないように感じる、そんな時。 終電で帰る、という自分の言葉に背いて、帰らないと決めた日にふらふらと何かを探す。 どこに行っても、誰に会おうと、話す言葉はさほど変わらない。 ただ、話したい。そして何かを聞きたいだけで。 なんとなく立ち寄ったお店で、当然のように流れている音楽にも退屈し始めた頃、未知の何
周囲の男たちより頭一つ抜けている。押し殺していても隠せない筋肉の気配が後ろ姿でわかる。 あの男は、いつか会ったことのある彼は周りとは明らかに違う純粋さを醸し出している。欲望の香りは少しもなく、己のありのままの振る舞いだけで人を魅了できることを知っているのだろう。 上の方にある彼の目をじっと見つめていると、視線に気がついたらしくこちらに目を向けてくる。その瞳からは何も読み取れない。 少し首を傾け、片目を閉じ、笑う。 前に会ったことがあるとこちらから切り出し、話
2020年の6月頃から低用量ピルを服用している
ほとんど遊んだことのない友達をクラブに連れて行った 華やかな照明や大音量の音楽にテンションの上がる友達に対して、慣れてしまってぼんやりと知り合いを探してみたり、踊るくらいしかやることのない自分の温度差に少しショックを受ける クラブの夜は長いので自分のペースを保ちながら楽しもう、と控えめに振る舞う メインフロアに飽きてきた頃、休憩も兼ねて一人でタバコを吸いに行く ぼんやりと煙を吐き出していると 「ライターお借りしてもいいですか」 「何吸ってるんですか」 「今おひと
静まり返った星空の美しい地元に降り立つ 久しぶりに吸い込んだ空気は澄んでいてとても心地よかった 二代目の犬が私に飛びついてきて、覚えてくれていたことに安心した 体調不良を考慮してか、用意されていた料理は胃に優しいものだった 久々の実家の味に体だけでなく、心まで満たされる気がした ショートカットの私に、母親に似てきたと妹が言う 母は、ますます垢抜けて帰ってきたとコメントした きっかけは前向きではなかったものの、切ってよかったと思えた
3月に突入する前日、私は部活を辞めた 大暴れとも乱れ切りともいえる奇行のせいか、総合的なストレスか、生理が遅れているのに気が付いた 妊娠検査薬を使うしかなかった、恥ずかしいなんて言ってる場合ではない 結果は陰性、翌日には酷い痛みと共にいつものそれがやってきた 知り合って1ヶ月ほど経っていた一人の男とカフェでお昼を食べ、タバコを吸いながらぽつぽつと話してみた 「何かあったらちゃんと言ってほしい、病院行くってなったらついていくし。一人で抱え込むなよ、辛かったろ?」 行
男とラブホに行くのは今や特別でもなんでもない 女の子とラブホ女子会、というのもあるが
あたしは揺さぶられている 痩せていて小柄で、妙にしなやかな野生動物のような男に抱かれて こんなにも近くにいるのに誰も何も満たされていない 本当に欲しいものはこれじゃないのに 他の埋め方がわからないから何度も貪るように繰り返される これは快楽か、それとも苦痛なのだろうか
よくあるかもしれない 本当はよくない、あってはならない話 ずっと昔に悪い男に捕まった少女の出来事 小学校1年生のとき、兄は小学3年生だった 地元のスポーツクラブに所属していたときの親子の集まりで 大人たちはお酒を飲んでご機嫌にしゃべり続けていた 男の子ばかりの中一緒に遊んでもらっていた 酔っ払いの大人は公民館の一室に籠り続けてよくわからない話をずっと続けている 食べ飽きた小学生はここぞと狭い公民館で遊び倒していた 10人をはるかに超える男の子に混ざる女は自分
母は花を育てるのが得意だ 元を辿れば母のその母、つまり私の祖母が得意だったらしい 種からでも、買ってきた植木鉢、人からもらった花束でも、元気がなくなってしおれかけたものも、大抵生き返らせることができた、と 植物の世話は難しいけれどやりがいがある、と母は言う
強い男、勝てる男とは何だろう コーチャーの教えはどこまで正しいのだろう 今までやってきたことは間違っていたのだろうか 戦場を変えたら活かせるのだろうか あの空間で共有している音楽 自分をより良く見せるため着飾った男と女たち 会話などほとんど不可能に近い状況でどう魅了するのだろう? 一人で渋谷へ向かい何でもないようにクラブへ行く お酒を飲みタバコを吸い、周りの人間を観察する 非日常の空間に飲まれていく中で、馴染んでいる人と浮いている人間の違いが見えるようになる
帰省して両親に批判されても、ついにタバコをやめられなかった 心の支えを失い、部活への意欲も無くした 持て余していたのは心だったのか体だったのだろうか 人は出会いで変わる、ならば出会いを探せばいいと 2020年の1月、渋谷を一人で徘徊していた スクランブル交差点前で大学生らしき2人組に声を掛けられ飲みに行く チェーンの居酒屋で話していると何やら用事だと言って片方がお店を出ていく もう一人も電話といって席を離れる 一人でタバコを吸っていたが注文用のタッチパネルの画