私は彼に会ったことがない。

(桝田倫広|東京国立近代美術館 主任研究員)

私は彼に会ったことがない。だから作品についてはともかくとして、彼の生き様に触れるようなことは言えない。それでも、彼の小品やドローイングを見ていると、どうしても思ってしまう。2021年の彼の新作が見たい、と。もちろん、すでにつくられた作品だって、いくらでも新鮮な眼差しで捉えることができる。そして未知の発見に驚き、喜ぶ。絵画は動いているのだ。でもそういうことじゃなくて、彼だったら、いまの世界にどんなふうに反応するのだろう?それが気になる。

ところで、もし彼が残した作品やドローイングをAIに覚えさせたらどうだろう?彼の「新作」は難なくつくられるんじゃないだろうか。今回展示された作品群を見れば、彼がイメージを描くことで、絵について周到に考え続けていたことがよくわかる。たとえば、とあるドローイングでは、顔や花のイメージを貫く線によって、一つの顔のイメージを複数の部分に分節しつつ、ずらしていく手法が見て取れる。キュビスム風の再構成やパウル・クレーの図と地の反転、フランシス・ピカビアのレイヤーの作り方を思わせるような手法だ。こうした彼の理知的な手法とAIの機械学習との相性は良いのではないか。

こんな無作法な命題を立てるのは、AIが彼の「新作」をつくることはできないと内心、信じているからだ。これは近代的な人間主義にとらわれた者の、浅はかな考えかもしれない。けれども今回の展示作品を見ると、AIによって学習されえない性質が、彼の作品群に刻印されていると思ってしまうのだ。たとえばベニヤ板に描かれた絵に見られる、クレヨンを拭ったことでできたと思われる油染みや、理由はわからないけれども、支持体の中心部に生じた破れ目(納得がいっていないから、自ら壊そうとした?)などに、彼の生々しい身体の痕跡を感じる。こうした痕跡は、彼の周到さや理知的な手法を台無しにしてしまうかのような偶然や失敗、時には子どもじみた思いつきのような試み、すなわち表象の裂け目に現れる徴候だ。周到であればあるほど、徴候が絵画に精彩を与えてくれる。古今の作家たちは、これを「チャンス、アクシデント、インシデント、エラー」など、さまざまな言葉で形容してきた。彼もまた制作中に意図せず出くわす偶然や失敗の重要性を理解し、それを楽しみながら描いていったように思えて仕方がない。今回の展示は主にステータスがやや不明な小品によって構成されているから、それゆえに絵を描く際の、支持体やメディウムに対する彼の反応が、完成されたタブローによる展覧会よりも率直に現れていると思う。

私は彼に会ったことがない。でも作品を見ていると、彼の声が聞こえてくる気がする。いや、会場では記録映像も展示されていて、実際に彼の肉声が聞こえてくるんだけど、そういうことじゃなくて。