この文章は「批評」ではない。

(山本浩貴|金沢美術工芸大学 講師)

最初に明言しておきたいことがある。この文章は「批評」ではない。なぜか。僕が「批評」の執筆を頼まれたときに使用したことのない語彙が、これから書く文章には含まれているに違いないからだ。僕には中園孔二の作品を「批評」することはできない。では、この文章は何か。そう問われれば、おそらくは「感想」ということになるだろう。より適切な言い方をすれば、「降参宣言」に近いかもしれない。

もう少しだけ中園と「批評」の話を続けると、彼の作品は批評家にとって「深淵」を形成している。僕自身は「批評家」を自称したことはないが、たまにレビューのようなものを発表している。だから僕にとっても、彼の作品は「深淵」として現出している。よく知られたことだが、一昔前の「批評家」たちがたいそう好んで引用したニーチェは、「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている」と述べた。中園孔二の絵画が形作る世界は、既存の意味や価値から構成される批評の言語を瞬く間に解体してしまう。自らが批評という営為のために磨きあげてきた「道具」としての言語が、まったく役に立たなくなるのだ。ハンマーは「打つ」という目的のために使用されてこそ、より根源的な関係を人間と切り結ぶとハイデガーは説いた(気がする)。だが、あまりにも堅牢すぎて何かを打ちこむことのできない壁を目の前に、ハンマーはそれでも「ハンマー」でありうるのか。中園の作品を目の前にし、そのあとで自らがこれまでに(曲がりなりにも)鍛えあげてきた「言語」に目を落としてみたとき、僕はそんなことを考えてしまう。

僕が「批評」のなかで使用しない言葉のひとつに、「天才」とか「才能」といった類の言葉がある。「批評」においてその言葉を使い始めたら「負け」(自分に対する?)のような気がするし、そもそも「芸術の自律性」なるものを敵視する傾向がある現代美術の批評は、個人のアーティストに還元される「天賦の才」といった概念とどことなく折り合いが悪い。だが、中園の画業については、「そう」(やっぱり件の言葉を使うことには抵抗がある)としか言えない部分がある。インタビューで彼は「気持ちのいいこと」をしているだけで、それが絵であっても、文章であっても構わない(自分はたまたま絵だった)といった趣旨のことを語っている(あの映像が展示に含まれていたことは、たいへんよかったように思う)。それを聞いたとき、彼の作品を「批評」することは、少なくとも僕にはできないと感じた。

僕が「批評」のなかで使用しないもうひとつの言葉が「感性」である。「感性」の存在を否定するわけではない。ある程度の客観性が要請される「批評」のなかでこの言葉を用い始めると、結局は「人それぞれ」というところに落ち着いてしまうからだ。それが真実であるとしても。むしろ、現代美術の批評は「感性」と「理性」の二項対立自体を問いに付してきた。それらは不可分に連接しており、分離して考えることはできないといったように。だが、中園の作品はその問いを再度、問いに付すようだ。彼に「理性」が欠けているということではない。インタビューを見ると痛いほどわかるが、中園は独自のロジックを有している。ただ、彼の絵画を眺めるとき、何か純粋な(混じり気のない)「感性」といったものの存在を目にしているのではないかと感じる瞬間がある。

このように、中園孔二という芸術家は批評家にとって一個の「深淵」である。既成のロジックを拒み続ける彼の作品の前では、批評の言語は「壊れたハンマー」のようなものにすぎないのかもしれない。この程度の短い文章のなかですら、「ニーチェ」や「ハイデガー」に頼らざるをえない僕の言語は、中園という巨人を前にただ立ちすくむことしかできない。