海を感じるアトリエ 中園孔二

(水沢 勉|神奈川県立近代美術館 館長)

 不慮の事故で突然この世を去った画家・中園孔二の作品に触れるたびに「夭逝の画家」という神話の影がどこからか差してくるのを感じる。おそらく、それは日本近代のコンプレックスとどこかで密かに通じている。
しかし、そこからいかにも自然に、ことさらに力むことなく解き放たれていたのが中園孔二の世界ではなかったか。今回のまとまった展示に触れて改めてそのことを痛感した。

 絵画を絵画として成立させる条件が、まさに過不足なく満たされたときに、それを迷うことなくつかみ取り、新鮮な果実のままに提示してくれる祝福された才能。イメージの出現性に逡巡がない。直截である。曇りがない。伸びやかである。

 とはいえ、その夥しいスケッチ群や未発表の作品群に触れると、この雑味をいっさい感じさせないイメージの出現性にこそすべてを捧げたと思われる才能は、同時にまた得体の知れない、不気味なものを召喚する能力でもあったことを教えられることになる。

 とりわけ「絶筆」という言葉の誘惑に駆られる、モノクロームのドローイング。合板を支持体にしてそこに油彩で人物たちの描いた、おそらく未完成の画面を隠すように(しかし、一部は見えている。それはきわけて意図的な作為であろう)、そのドローイングは貼られていた。そこに描かれているなにか宗教的な雰囲気を湛えた夜の集会のような室内の場面である。

 これらの作品群は、香川の牟礼の海岸に近いアトリエに残されていた。海を感じるアトリエ。そこに集まり、やがて消えていったさまざまのイメージ。その痕跡が絵画として凝縮昇華されて一部残された。そのリアリティからこの過剰なまでに多産で、小動物のように敏捷な、中園孔二という才能のめざした方途が見えてくるのではなかろうか。