見出し画像

『三国志拾遺 正』第六章,補遺②

河内春人「3世紀の東アジア・概論」(『歴史評論』第769号,2014年)に,以下のような記述がある.この一文を見落としていたのは私の過失であるが,やはり先行研究の理解に問題を残している.

この帯方郡の役割は西域の戊己校尉に比するものであり,ここに魏の東西  の外交窓口が定まったのである.親魏大月氏王に対比される親魏倭王の称号もその延長線上で考えるべきであろう.これまで大月氏と蜀の連携を想定し,それを阻害するために親魏大月氏王が授与され,倭への親魏倭王も同様に倭による呉への牽制を期待したという理解が一般的である*.ここではそれとともに,西域諸国が大月氏に属すという記述に鑑み,戊己校尉―西域―大月氏という西方支配の構造に対して,帯方郡―東夷(朝鮮半島周辺)―倭という類似構造を指摘しておきたい(11頁).

*を附した箇所に註(9)があり,西嶋定生「親魏倭王冊封に至る東アジアの情勢」(同『中国古代国家と東アジア世界』,東京大学出版会,1983年)が引かれている.思うに,以下の記述が頭にあったのだろう.

すなわち,大月氏王波調が親魏大月氏王に冊封されたのは魏の太和三(二二九)年のことであるが,その二年前,蜀の建興五(二二七)年三月に,涼州の諸国王がそれぞれ月支・康居の胡侯たち二十余人を蜀王朝に派遣してその節度を受けさせ,蜀郡が魏軍に対して北方に出兵するばあいには,その先駆となることを申入れた,という記憶がある.前述のように当時魏王朝は,諸葛亮に率いられた蜀軍の進攻に悩まされていたのであって,この蜀軍にさらに西域諸国からの助兵が加わるならば,それは魏王朝にとって由々しき大事であった.それゆえ魏王朝は,おそらくはその商人などが来国したことを機会として,西域諸国の背後にある大月氏国の国王波調を親魏大月氏王に冊封し,これと提携することによって西域諸国が蜀に助兵することを牽制しようとしたものであろうと想定される(492頁).

両文を読み比べればわかるように,西嶋氏は「大月氏と蜀の連携を想定し,それを阻害するために親魏大月氏王が授与され」たとは言っていない.もちろん『三国志』以下の史書にもそのようなことをうかがわせる記述はない.「西域諸国と蜀の連携を想定し,それを阻害(ないしは牽制,引用者)するために(波調に,引用者)親魏大月氏王が授与され」たというのが,西嶋氏の主張である.しかし西嶋氏の言う「西域諸国と蜀の連携」さえなかったというのが私の理解である.あった(らしい)のは,「涼州諸国王と蜀の連携」だけである.

それとともに,「西域諸国が大月氏に属すという記述」などない.大月氏が地域大国として,いくつかの西域諸国をその影響下に置いていただけである.「属」とは服属・隷属をイメージするが,各国にはそれぞれ「王」がいたであろうから,その連合はゆるやかなものだったと考えられる.また最後の類似構造というのも意味不明である.仮に西域諸国が大月氏に属していたとして,この図式だと,朝鮮半島周辺の朝鮮が倭に属していたとでも言うのだろうか.まさか著者もそんなことは考えていないだろう.大月氏もクシャン朝と表記すべきであろう.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?