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節分の日の思い出

2005年の節分の日は大学3年の後期試験初日。
バイトに明け暮れ、授業をサボりにサボりまくった結果、当期1つでも単位を落とすと留年する(※自業自得)という崖っぷち。

初日の試験は手応えあり。しかし、2日目は毎年25%しか合格しない科目が待ち構えていたため、気分は憂鬱。

大学を出て、自転車で自宅に向かう。途中、当時の彼女からメールあり。家族と韓国旅行から帰ってきて、自分の家に向かっているとのこと。

付き合い立てということもあり、憂鬱な気分は吹っ飛んだ。軽快に自転車を漕ぎ、とある交差点へ。

目先の信号は赤。自転車に乗ったまま待機。
青に変わると勢いよく自転車を漕ぎ始める。

その時ー

横断歩道左側からガスタンクを詰んだ1.5tトラックが突っ込んできて側面衝突。

ぶつかった瞬間、「青やん。」と1人ツッコミを入れていたのを鮮明に覚えている。

反対側の信号まで吹っ飛ぶ。反射的に右腕で受け身の体制を取る…が勢いがあり、後頭部も地面に強打。

近くにスーパーがあり、そこで買い物をしていたオバさんだろうか?悲鳴をあげていた。

トラックの運転手が自分のところに駆けつけてきた。「大丈夫か?」と声をかけられると、美容院のシャンプーの際、「水加減どうでしょうか?」と言われた時のように反射的に「大丈夫です。」と答えた。

実際、ぶつかった直後は気が動転しており、筋肉も緊張していたからか、最初は痛みと全くなかった。ただ、おでこからツーっと何か液体のようなものが落ちてきて目に入りそうになったので触ってみると…血が。。
そこでようやく自分は事故にあったと自覚した。幸いにも自転車に乗っていた両足は無傷。腕の感覚はほぼなかったが立ち上がることはできた。

「救急車呼ぶから!」と運転手が電話する。そう言えば、彼女が家に向かっていることを思い出し、ポケットから携帯電話を取ろうとする。

携帯電話はペシャンコで液晶はバリバリだった。が、動作はするみたいで、ボタン操作で履歴から彼女に電話。

彼女「もしもし?」
俺「あ、○○?俺ね、何か事故ったみたい。今から救急車に運ばれるんだとか。」

とだけ言って電話を切る。
そこまで時間はかからず救急車が到着。担架に乗った瞬間緊張がほぐれたのか、身体中に激痛が走る…

いででででで!!!!

救急車に乗ってる最中、名前や年齢、学校名、両親の名前や電話番号?などを聞かれた。それ以外は全く覚えていない。

頭を打っているということもあり、最初に向かった病院は脳外科だった。CTスキャンを取った結果、頭部打撲と診断。ひとまず脳は大丈夫と言うことだった。

続いて整形外科へ。この時既に両腕がパンパンに腫れていた。レントゲンを摂った結果、両腕複雑骨折で全治3ヶ月と診断。両腕にロックバスターのようにギブスを付けられた。

このタイミングで母親が病院に到着。「大丈夫⁉️」と腕を触る。痛い痛いw

その数分後。バイト先の子が駆けつけてきた…彼女と共に()
どうやら、自分が彼女に電話した後、そのバイトの子に連絡したらしい。その子が警察に電話して、この辺りで交通事故に遭った学生いますか?と聞いたところ、自分の居場所がわかったらしい。

し、死にたい…( ゚д゚)

まさかの事態で母親と彼女初対面。生きた心地がしなかった(笑)

その後父親も駆けつけて更に死にたくなり…事故った自分を置き去りにするかの如く、彼女に質問攻め。バイトの子が必死になって話を逸らそうとするも空を切った。


そんなこんなで、両腕ギブスで何もできない状態になった自分は当然、2日目以降の試験は受けられる状態ではなく。ただし、足は歩けたので翌日大学に行って教授たちの室に出向いてはロックバスター…じゃない、骨折の話をして試験が受けられないことを報告。

すると、残りの試験はレポート提出と再試験となった。特に絶望的と思われていた科目は教授が海外出張などで忙しく、レポートに変わったのは不幸中の幸いだった。また、こんな状態では遊びにもバイトにも行けないので、再試験の日までひたすら勉強した。

そして…当期は奇跡的に全単位取得。留年を免れたのであった。


あの交通事故がなければ、きっと留年していたのは間違いないし、そのまま院にも行ってなかったと思う。つまりは上京も出来てなかったかもしれないし、今出会ってる人たちにも出会えてなかったかもしれない。

節分とは文字通り節の分かれ目。自分の場合、この年の節分の日は今後の人生の大きな分かれ目だったのだろう。
※画像は実際の事故現場

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