中島 康太という人物

前置き

これは自分自身で過去に何をやってきたのかどんな人生だったかを振り返るために書いたものです。

生後~小学生

1993年8月24日に長崎県西彼杵郡時津町という町で生まれる。
聞いた話によるとへその緒が首に絡まっており、死に掛けていたとのこと。

親たちの近所づきあいが非常に良い地域だったので、子供同士で遊んだり、
たまに海辺でBBQをやったりしていた。

家の前が坂になっており、下ったところに駄菓子屋さんがあったが幼稚園の帰りに100円を握りしめておやつを買うのが習慣だった。
もっと小さいときに戦隊モノのビデオを見たいため、駄菓子屋さんの家に勝手に忍び込んで泥棒だと勘違いされたことがある。

小学生のころはそろばんとソフトボールを両立する日々を送っており、遊べるのは土曜日の午前中だけだったが、そろばんに対してやる気をなくしてソフトボールだけになった。

ただ、おじいちゃんの介護で毎週土曜にお父さんの実家にいっていたこともあり、試合に出ておらず、気づいたら同級生はジュニアからレギュラーになっており、自分もレギュラーに昇格するもライトの9番で必ず途中で交代するようなポジションになってしまった。

小学校3年生の時に友達から囲碁を教わり、ヒカルの碁のゲームを親に購入してもらい、それをひたすらやっていたことで小学校のクラブ活動で当時とても強いと言われていた医者の娘さんに勝利し、大会で優勝をする。

この時の経験からソフトボールから囲碁へ転身を親から進められ、ソフトボールを辞めることになる。
ただ、ソフトボールを辞める1か月前の学校の昼休みにグラウンドをかけっこしていた時に後輩が蹴ったサッカーボールが自分の出そうとした足に当たり、転んだ時の手の付き方が悪く骨折して最後の試合に出れないまま辞めることになってしまった。

中学生

中学校に入ってからは部活動に入らずに郊外で囲碁を続けた。

中学校1年生の時に後期の学級委員を多数決で決められて、やりたくなかったが強制的にやらされることになる。

女子側の学級委員が無理難題を押し付けるタイプだったのと、読書時間の時に注意したクラスメイトが「なんだあいつ」みたいな反応だったことと、回りは無視するような印象をもったことから、他の人と必要最低限の会話しかしなくなる。

2年生に上がったタイミングで担任の先生が変わり、とても信頼できる先生だったこともあり、当時の自分に対して「話していい」と声をかけてくれたことがきっかけで徐々に他の人と話せるようになった。

元々親から後に入ることになる高校に入るのは無理だと言われていたが、成績が良かったこともあり、学習塾に入ることになる。

その先生はワンマンで回していて大変そうだったが、とても情熱的な先生でたまにホワイトボードのマーカーが飛んで来たりしていた。

2年生と3年生の夏休みの時は毎日授業があり、17時ぐらいに既定の範囲が終わっていれば即帰宅していいこともあったため、自宅で前もって終わらせておき時間になったら定時退社するサラリーマンの勢いで帰り、寝るまでオンラインゲームに没頭する毎日を送っていた。

学習塾に通い続けたことで成績がぐんと上がり、最終的に成績で当初目指していた高校に推薦入学を果たす。

特に英語の成績がよく毎日A4ノートに英文を書いて提出するという鬼の宿題を出す先生がいたが、自分はそれを難なく実施していた。それどころか1行に何文字詰め込めるか追究するほどバカ真面目だった。

受験期間を早めに終えたこともあり、フラッシュサイトの動画を見ているうちに「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメにハマり、オタクの道を歩み続ける。

高校生

高校生になったタイミングでギター同好会に入るも全く活動していなかったため、友達が入っていた電気通信部に入り高校生ものづくりコンテストに高校生活を捧げる毎日を送った。

来る日も来る日もはんだづけとプログラミングを繰り返し行うものの、年に1回しかない大会本番では寝れなかった影響などもあり、本領発揮できずに2年連続2位で九州大会に出場できずに終わった。

たまたま、運よく前年度に出場していた先輩が九州大会に出場していたこともあり、高校生から短大生までが出場できる若年者ものづくり競技大会に出場することになる。

はんだづけの技術はピカイチで、プログラミングは一ヶ月で習得したこともあり、ボロボロだったが、トヨタ自動車の指導員の目に留まり、愛知県から長崎県の学校までスカウトに2回も来てくれた。

1回目のスカウト時点でホンダに行くつもりだったのと、トヨタがすごいことを理解していなかったのでお断りしたが、先生とトヨタの指導員の強いプッシュにより、トヨタに入社することを決める。

高校は共学だったが、自分のクラスは女子が1人もいなかったため、男子校みたいなノリで授業中に服を脱ぎだす変なやつもいた。

当時はアニメキャラの声真似をする生配信が流行っており、好きなキャラクターと話したいがためにお小遣いでニコニコプレミアムの会費を払って生配信を始める。

400人ぐらいまで伸ばすことができたが、トーク力の問題などもありそれ以上伸びることはなかった。

ただ、同時目標だった好きなキャラクターの声真似をしていたニコ生主からスカイプの凸電をもらうことができたのはいい思い出である。

当時はGIMPというソフトを用いて他の人のサムネイルを作成してプレゼントを行う活動もしていた。
その一環でもたまに動画を作ることがあった。
https://www.nicovideo.jp/watch/nm9038090

トヨタ自動車時代

トヨタ自動車に入社して1か月間は研修を行っていたこともあり、同い年の同期と仕事終わりに8畳の部屋に集まってPS3で遊んだり、みんなでご飯を食べて大浴場にいく生活を送っていた。

研修が終わってから技能五輪の部署に配属され、朝から1時間残業して、定時後に1時間残業する毎日を送っていた。

競技の中に回路設計を行う必要があるのだが、回路設計が大の苦手で諦めやすい性格だった自分はすぐに「ギブアップ」して指導員に教えてもらうという手のかかる選手だった。

1年目は入賞することができずに終わった。

2年目は心機一転して回路設計の強化を行ったが、大会本番の3か月前まで成績が振るわずに模擬大会では常に入賞できない状態が続いていた。
帰宅後にも自分で回路設計を勉強していたが、結果に結びつかなかったことからメンタル管理の外部講師の人にも常に辞めたいと嘆いていた。

ある日上司に呼び出されて「過去一成績が悪い選手だ」と面と向かって言われるも自覚はしており、どうしようもない状態に歯がゆい思いをしていたが、リーダーの人に作戦を大胆に変えることを提案され、それを実施したところ次の模擬大会から入賞するようになった。

最後の大会では作戦が上手くいき、銅メダル(5位/約60位中)に入賞。
その年はトヨタ自動車の選手が金・銀・銅メダルを獲得するといった好成績を収めることができた。

その後1年間後輩選手の指導にあたり、車の半導体を開発する職場に配属された。

時間に余裕もできたこともあり、21歳で街コンに行き始める。
最初の1回目に年上の女性とLINEを交換して連絡するも、既読スルーされて自分の人間性の低さが問題だと感じて、次の日に豊田市で一番大きな本屋の自己啓発コーナーに本を買いに行く。

それ以降も街コンに通い続けるも上手くいかずに終わっていた。

そんな時に技能五輪の時にお世話になっていた先輩から合コンに誘われる。
来ていた女性はタイプではなかったが、先輩が連れてきた年上の男性がとても面白く、合コンの最中に恋愛について教えてもらうようにお願いして、後日ご飯に行くことになる。

そこがきっかけでネットワークビジネスもどきを始めることになる。
ただ、同時に初めての彼女ができる。

ある日、技能五輪でお世話になっていた先輩がネットワークビジネスもどきをやっていることが発覚し、自分も疑われたが、ネットワークビジネスもどきのオーナーに囲い込まれてトヨタ自動車を泣きながら辞めることになる。

派遣時代

派遣社員として働きつつ街コンに通い、恋愛がうまくいっていない人をオーナーに紹介する仕事をしていたが、トヨタ自動車を辞めた途端に全くと言っていいほど売れなくなった。

最初はとてもいいものをオーナーが売っていたので心の底からおすすめしていたが、車をぼったくり価格で売るようになってから心の奥底で抵抗感が生まれていたからか、全く紹介できなくなる。

最も強烈だったのは当時付き合っていた彼女に対してオーナーが脅すような形で車を売り飛ばしたことにより、不信感が増していった。

これが今のコンテンツ販売に対する嫌悪感につながっていると思う。

そのオーナーは極悪非道で熱を出している人も無理やり引っ張り出して旅行に連れて行って車を売ろうとしたことからさすがに自分にはそんなことはできないと思い、自ら連絡を絶つことになる。

今思えばとても正解だったと思う。

この時のネットワークビジネスもどきで金を搾り取られていたこともあり、ローンとリボ払いで400万円と上限まで到達し、派遣だけだと返せなかったため副業で早朝バイトとブログを開始する。

朝4時に起きて9時までレンタカー&カラオケのバイトに行き、終わり次第派遣に行って帰ってきてからブログを書き続ける毎日を送っていた。

ブログで稼げるようになった後にYouTubeを始める。
トヨタ自動車で培った技能五輪の経験を元に電子工作のチャンネルを開始。
YouTubeを始める前に他チャンネルのリサーチを行ったが、どれも分かりにくく、中学生のころの自分でも分かることをコンセプトに動画を投稿していったことで半年で登録者数1,000人を達成することができた。

その稼ぎでバイトを卒業することができた。

堅実に稼ぐために派遣から正社員のエンジニアになり、働くも常駐先の良い様に扱われることと仕事中に眠たくなることがストレスだったことから当時副業で頑張っていたYouTubeで独立することを決める。

フリーランスになってから

独立前にFXで月利5~10%ほど出す手法に則って200万円ほど稼いだが、コロナウイルスをきっかけに為替が大きな変動が起こり、そのタイミングで操作ミスをしたことでトータルで400万円を溶かしてしまう。

当時は人生の夏休みと題してカラオケや低貸しのパチンコ・スロットに入り浸っていたが4か月経つぐらいの時に直近がなくなりそうになり、仕事を必死に探していた時にたまたま今もお付き合いのある会社と出会う。

面談した部長さんはすぐに採用してくれたこともあり、しっかりとコミットすることを決めていたため、リサーチを半日で動画400本分終わらせて提出したところ社内で「サイボーグ中島」と話題になる。

当時行っていたリサーチ方法を自動化するためのツールができるなど良い影響を与えたことは間違いないと思う。

そこから大企業案件をこなしたり、個人の料理チャンネルで300万回再生を叩き出すなどそこそこの成績を残すことができた。

同じ年の12月からLugiaチャンネルが始動する。
これからビジネスが立ち上がる瞬間だったこともあり、とてもワクワクしながら毎月動画投稿を続けた結果、登録者数は良い感じに伸びている。

今後について

現状は制作会社と4社ほど提携しているが、クライアントから頂く金額と実際に自分が受け取る金額の差によるジレンマとテイカーなクライアントの仕事もやることになることから個人で仕事を獲得できるような取り組みを行いたい。

何か熱意を持っていて世の中の常識を変えたい
そんな思いで事業を行っている人の力になりたい

また責任を持ってそれを実現する代わりにしっかり報酬をいただけるようになることが当面の目標である。

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